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手や足の汚れを洗う人あれど 心の垢を落とす人なし

親鸞聖人の著された和讃に

「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不定のわが身にて 清浄の心もさらになし」(聖典508)
求める心があると一点で仏と人間が一つになる。これを仏凡一体ともいうし廻心ともいう。ここで仏と人間が一つになっても、そこから仏と離れていく。 こういうことを明らかにされたのが親鸞聖人といえます。
そして離れているということで、仏に一番近いこと、仏になれないことが仏になった証拠といえます。
救われていないということが解った事が救われている証拠であり、真実に触れなければ「虚仮のわが身」がわからない。そして「虚仮の身」ということが 真実に遇っている証拠といえます。

「私がこんなに努力しているのに。」
というのは怠けている部分を見ずに、都合のいい部分をつなぎあわせて努力していると言っているのに過ぎないのではないか。
自己の思いで判断、切り捨てる私がおります。

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