歎異抄に
「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の 利益にあずけしたまうなり。」(聖典626)不思議ということは不審不可知でなく、見ることと知ることが一つであるようなしかたで「発見すること」といえます。最も歴々とありのままの現実 に触れていることともいえます。 そして有ることが難しいことーありがたいとも。 生きている事の不思議、有り難さにはっと目を見開く心持ちではないでしょうか。
「念仏には無義をもって義となす。不可称不可説不可思議のゆえに。」(聖典630)
よく見れば なずな花咲く 垣根かな (松尾芭蕉)
ただ悲しいかな、生きている事の不思議有り難さに気づかない。重い病気から生還した時には多少なりとも思うのでしょうが。
父親が癌の宣告をされました。
「病気で死ぬのではない、生まれたから死ぬのだ。」
と常日頃から申しておりましたが、いざ自身が病を受けたらやはり慌て沈み、何とかなりはせぬかとしがみつこうとします。
「慎ましく」ということはなんとも難しいー有り難いことか、我が身に問われることであります。