学ぶ・考える

法話:人が生きるってどういうことだろう

人が生きるってどういうことだろう
正福寺 釋 元雄(成瀬元)

私達は人と生まれた。しかし、人間の姿をしておれば人間といえるのだろうか。自分が人間であることに自覚的であるのだろうか。

「人が生きるってどういうことだろう」とは、あるテレビ放送の特集番組で、32才男性癌患者が自らの死と向き合った中で出てきた言葉である。「人が生きるってどういうことだろう」、このような問いを持つ人は少ないだろうし、持ったとしても正面から向かわずにごまかしてしまう場合もある。健康な時や若い時、楽な時はあまり考えない課題であろう。

先日、消費者金融の社員の実態がテレビ放映されていた。過大なノルマを課せられ、人が人の心を持っては生きられない状況を映し出していた。より多く貸し出し、より多くのお金を回収するなかで、回収が未達成であれば、社員は人間として扱われないような言葉をあびせられる。お金を回収するためには手段を選ばない、自分さえよければよい、借り手が自殺してもお金がもうかればよい、というのだ。これこそ現代社会を象徴した姿といえる。このような行為が人間といえるのだろうか。今日の日本社会は人間らしさを完全に喪失した。

「人が生きるってどういうことだろう」この問いに仏教はどう答えるか。江戸時代の真言宗の僧侶、慈雲尊者は「まず、人は人となるべし」と言われた。「人が生きるってどういうことだろう」、その答は、人が人の道を生きることにある。この世は矛盾に満ちた世界だ。子どもに勉強をさせるのも、将来の金もうけのためである。本当に勉強好きな子は、かえって生活しにくい社会である。全く矛盾だらけだ。生きてゆくには、必ず悪いこと(殺生など)をせねばならない。穢土(汚れた世の中)そのものである。そういう世界で仏の教え(私の中では、お念仏の教え)にふれているという生活が、「人間となる道」である。人間を人間たらしめる原理といえる。

今年の四月、一番下の子どもが中学校へ入学した。私も、仕事の都合をつけて入学式へ出席した。その折、ある方のスピーチの中に、「君たちは勉強しなければならない。何故か。それは君たちは人間だからである」とおっしゃっていた。私にしてみれば、「人間だから勉強しなければならない」というよりも「人間になるための勉強をしなければならない」というべきだ。

私は大学を卒業後、しばらく会社の営業職として働いていたが、朝から夜まで、「お金、お金」「仕事、仕事」という生活の中で、「何のために働いているのか」という疑問が、心の中の「むなしさ」とともに湧きあがってきた。およそ、人間は職業の上に職業を超えた意義を求めるものである。そこに、「やりがい」「働きがい」「生きがい」を求めるものである。単にお金の為、食べていく為だけならば動物と同じだが、人間は本能的にお金を超えたものを求めずにはおれない。そこに、「むなしさ」が出てくる。

親鸞聖人の著作「三帖和讃」の中に「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」という御和讃があるが、「むなしさ」を感ずること自体、私達が本当の仕事、そろばん勘定のない生活を求めている証といえる。人間には欲があるが、欲の奴隷となれば堕落してしまう。仏の教えが入れば、自己が本当の人間となり仏となっていくのである。そこに「人が生きるってどういうことだろう」の答えがある。

合掌


←前月の法話を読む→次月の法話を読む↑法話目次へ