法話:いのち
いのち 法照寺 釋 寛義(橋本寛) |
夏休みの最後に子どもたちと川遊びをしました。当日、稚コイが放流され魚すくいのイベントがあり、子どもたちと共に参加しました。普段、生き物に触る事も嫌がる娘でしたが、当日は一生懸命コイを追いかけていました。そのかいもあり、3匹獲る事ができました。世話が大変だから、逃がしてあげようといったのですが、娘は、持って帰って飼いたいというので、家で飼うことにしました。車で帰る途中、娘は、この3匹に名前を付けてやり、「ゆれないように静かに運転して」と注文を出すなど、すっかりお母さん気取りでした。
家に着き、2~3日は3匹とも元気でしたが、1匹が突然元気が無くなり、次の日、そのコイは死んでしまいました。娘は、大変がっかりし、「かわいそう、かわいそう」と言いながらそのコイを見つめていました。その後、そのコイを土に埋めてやりましたが、2匹しかいなくなった水槽をさびしそうに見つめていました。そして、しばらくして、2匹のコイに「元気に大きくなってね」と話し掛けていました。
今回、娘は、コイを通して、いのちの尊さ、はかなさを子どもながらに感じてくれたのではないかと思います。また、娘の姿から、私自身が気づかさせて頂いた思いです。
とかく現代は、死を穢(けが)らわしいものとして、限りのあるいのちを見えなくしています。自分だけは大丈夫だというように、今の状態が永遠に続くかのように錯覚してしまいます。最近は、核家族化が進み、家庭や近所付き合いなどにおいて色々な世代との交流が少なくなっています。老・病・死が見えなくなっているのです。
そうした中、「忙しい、忙しい」と言って、欲望のために走りまわっているのが、私たちの姿ではないでしょうか。「忙しい」の「忙」は、心(りっしんべん)に亡と書きます。こころ(いのち)を見失っている、忘れてしまっている姿が、「忙しい、忙しい」と走り回っている私たちの姿なのです。
ぜひ、一度、立ち止まり、限りのあるいのちを見つめなおしていただければと思います。そして、いのちの尊さ、はかなさを感じていただければと思います。そして、自分自身が限りのあるいのちを生かされていたと気づかされる事により、いのちを精一杯生きていく事ができるのではないでしょうか。