法話:「穢(けが)れを考える」
「穢(けが)れを考える」 大圓寺 釋 文生(大田文生) |
私は寺の住職となって四十年近くになります。従って、多くのご門徒の葬儀に立ち会ったり、出席をする機会が多くあります。その際見聞きする事の中に、私がいつも疑問に思っていることがあります。今日はいろいろある中で、二つの事を取り上げて「生者(せいじゃ)である私達が死者に向き合う時、その命の全体にどう向き合い受け止めたらいいのか、また、どう受け止めたら頷(うなず)けるのか」を考えてみたいと思います。皆さんも是非ご一緒にお考え下さい。
火葬場で遺体がお骨になると、そのお骨を拾い、タクシーか自家用車で自宅に戻ります。第一の疑問は 、その帰りの道を行きと同じ道を通らず、違った道を通って帰るということです。
第二に、自宅に戻られますと、その玄関先で塩を体に振り掛け、手で払っている光景を見かけます。これも当たり前のように行なわれています。
私は還骨並びに初七日を繰り上げてお勤めした後、最近はこの二つの事を取り上げて、皆さんにお尋ね する事にしています。
「皆さんはこの二つについて、した方がいい、しなければならない、するのが当然とお考えかもしれません。今日もきっとその様になさったと思います。そうであれば私は改めてお聞きしたい。なぜそうされたのでしょうか」と。
第一の事についてお尋ねした時、ある方から面白い意見が出ました。それは、「道を変えるという事は 、自分が亡くなった人の霊に追い掛けられたり、取りつかれたりされない様に、死者の霊を迷わせよう とするためだと思うんです。しかし考えて見ればそれはおかしな事ですね。なぜなら、遺族は拾ったお 骨を大事そうに膝の上に抱きかかえて車に乗っているんですよ。何を怖がる必要があるのでしょうか」という意見です。話が事実に基づいていて、なる程と思いました。難しく考えるまでもなく、灯台もと暗し、自分の足元だけが見えていなかったというわけです。
次に、二番目に指摘した事、つまり塩の件について考えてみましょう。体に振り掛けた塩は調味料としての、また単なる物質としての塩ではありません。「清めの塩」です。清めるという行為をするわけです。
ここでまたお尋ねします。「何を清められましたか」と。清めるという以上は何か汚い事・穢れた事があるから清めるという事がなされているに違いありません。
「であるなら、汚い事・穢れた事とは何でしょう」。それは人の死に関って言われている以上、死に関する事すべて、死んだ人の親族、死人を出した家、すべてが穢れているからだ、という考えに基づいているのでしょう。しかし、考えてみて下さい。亡くなられた方は、皆さんにとって大変ご縁の深い方です。親であればその人無しに私は無いわけですから、その人を死んだ途端に穢れであるとしてしまっていいのでしょうか。
もちろん皆さんは、私が今言ったことをお認めになるはずが無いと思います。そんなつもりは毛頭無く、わけも考えずにするのが当然と思っていた、なぜするのかなとは思ったことはあるけれどもみんながするのでしてしまった、と言った所でしょうか。
いずれにしろ、無意識的であれ意識的であれ、清めると言う、一見よいことをしているような錯覚を起こさせる言葉に従って「清める」ことは、きつい言葉になりますが、「人間の冒涜(ぼうとく)」になる行為なのだと私は言いたいのです。
しかも、亡くなっていかれた人を貶(おとし)めるだけにとどまりません。現に生きている自分自身をも貶めることになってしまいます。なぜならば、他人の死を穢れであると了解する時、そう考えるあな た自身についてもそうであるという事を認めた事になってしまうからです。死んだら穢れであるような命をあなたも今生きている事になってしまいますよ、そしてその様に私を扱って頂いて結構です、という事を外に向かって宣言しているようなものなのです。
塩で清めるという行為が以上のような事であるなら、穢れの再生産に手を貸す事になり、最早する必要の無い行為であるといえるでしょう。むしろ私達は、亡き人からこのような事を必要としない人間になるように、願われているというべきでありましょう。