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法話:「浄土について」

「浄土について」
理相寺 釋 俊明(佐々木俊明)

浄土とは、法蔵菩薩が五劫に思惟し、兆載永劫の修行のすえに成仏し、阿弥陀仏になり、十方衆生に説法しつづける世界である。浄土の働きとは往相回向であり、還相回向である。浄土の本質とは法蔵菩薩が成仏しても、煩悩衆生がある限り成仏できないという矛盾の世界をいうのである。浄土とは、法蔵菩薩が阿弥陀仏になり煩悩衆生へ働きかける事実と、往生したものを成仏せしめているという事実との接点が西方位に存在するという事である。

現在の浄土とは、多様化された現代社会の統制下で、迷い・悲しみ・苦しみ・悩み、そして多くの煩悩をもった現代人の心に活力を養い明日の生活に、喜びを持たせるためでなくてはならないのである。

私は数年前に、ある会に知人の関係で出席した。その会に出席する人の爛々とした目の輝き、テキパキした動き、自然に自発的に会を運営する人々の姿、中には多種多様の職業を持つ人々が互いに周囲に迷惑をかけないように気を配り、会を運営する姿に遠くから私はみとれた。誰ともなく会場の演壇の上にあがり、自分が体験した話とか日常生活の悲しみや苦しみや悩みを語り始める。内容はわかりやすい。それは日常生活の中の話だからである。その話は延々と続く。そして共に感動し、共に嘆き、共に感激する。その有様は実に感動的である。愚痴を話し、共に熱心に聞き感動する姿が、無関係な私の心をほぐす。一日が長く感じ、生き甲斐のある生活だと思い込む程素晴らしいのである。話題はつまらないが真実と誠意に依り、何か心にジンとくる。教団や寺院の説法を聞いて感動する人々もいれば、単なる会で嗚咽しながら熱心に聞く人々もいる。

私はふっと思った。如来の大信の行とは、このことではないか。もし自然に感動し、自発的に参加するならば、これこそ真の信行ではあるまいかと思った。

なぜこのような世界が自然に発生したか。私が思うに、今の多様化された文明社会では、その社会の秩序とか、統制とか、規律とかが一般化し過ぎたために何でも、これはこうであるとか、それはそうしなければならないとかで非常に窮屈になっているのではないか。

人それぞれの思い考え方は多種多様である。統制された中でゆがめられていけば、おのずとひずみが起こる。このひずみが悩みであり、苦しみではないか。この悩み、苦しみを自然に発散する事が人間として、生きている限り必要ではないか。

私は宗教の中で一番、この考えを受け入れているものは真宗ではないかと思う。

今必要なのは、真の信身であり、真の信心であるのではないか。共に悲しみ、苦しみ、悩むことが、日常生活に組み入れられ、喜ばしい生き甲斐のある生活のために活用されることが大切だと思う。


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