法話:「仏様の願い」
「仏様の願い」
恵林寺 釋尼妙真(荒山真喜子) |
この春、息子を関東の音楽大学へ送り出した。お寺の子なのにどうして?と思われる方もあるかもしれない。しかし彼は、私たち両親が右往左往するあいだも、自分の中にある、自己を自己たらんとする課題を見失うことなく、不器用かと思えるほど、かたくなに、自分の信ずる道を歩き始めた。
そんな彼ではあるが、自分が仏教徒であるという自覚はあるらしく、去年のクリスマス、「友人に教会のミサに誘われたけど、行ってもいいのかなぁ?」などと、かわいらしいことを聞いてきた。
「お寺へだって、いろんな人がくるんだし、せっかくのご縁だから、社会勉強に行かせてもらったら?」と応えた。
出かけたのは新栄にある立派な布池教会。午後10時からの部だったからと終電で帰ってきた。しっかりとしたパンフレットを見せてくれて、
「賛美歌、みんな歌っとったわ!」
(それは恩徳讃と一緒だわね。)
そんななかメインはやはり、牧師さんのお話だったらしい。
「お話、どうだった?」
「んー、忘れた、大体のことはこのパンフにかいてあるらしいよ。」
(ガクッ、そこが一番大事でしょうが!!)
ミサが終わってからは、友人のお母さんが教会の役員をしておられたらしく、食堂で、鶏の唐揚げやサンドイッチを、食べさせてもらっていたので遅くなったと息子。(お斎というわけね。)
形は違えども、これと似たようなことが、私たちのお寺でもある。初めて参詣された御門徒さんが、もの珍しさや義理で、お寺へ出かけてきてはくれるものの、その人々に確かな真実(まこと)、大切なこころがしっかり伝わっているのか、はなはだ怪しい。それは私自身が、確かな真実、大切なこころを見失ったまま人と関係し、常に出会った人に振り回されてばかりいる、じつに不自由である。顔と顔は向き合いながら、こころとこころは何も出会えぬまま空しく過ぎるという問題が常に私自身を問うてくるのである。
息子自身、自らの音楽を追求していくうえで、自らを問い、また人間を問い、宗教、それも親鸞聖人の教えをたずねていく日がきてくれることを願いつつ、彼の荷物の中に、『真宗聖典』と手作りのお念珠を入れたことである。