法話:前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え
前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え 西福寺 釋 暢宗(愛知宗麿) |
先日、あるお宅で執り行われた23回忌の御法事での出来事でした。
いつものようにお勤めをし、法話をした後、そのお宅の親族にあたる男性から厳しくお叱りをうけました。
「君のおじいさんにあたる先々代住職は、法事の時には必ず我が家の先祖の苦労や功績と、西福寺との深いご縁をよくよく話してくれたものだった。君も先代住職もそういうことには一切触れず、どこの家でも話しているようなあたり障りのない話をされるが、どんないい話だろうが、そんな話は私の耳には全然入ってこない。もっと我が家のことを勉強してから法事に来るべきだ。」
その方曰く、法事ではそうやって自分の親や祖父母、さらにはそれ以前の自分も直接は会ったこともない自分自身に繋がる先人の話を聞くことで、子どもながらに自分自身の今があることの尊厳と誇りを感じ、法事に行くことがとても楽しみだったとのことでした。
お釈迦さまが、菩提樹の下で真理に目覚めて仏陀になられた。その真理の法とは「縁起の法」であると言われます。仏教では人間はつながりの中で生かされているということを教えています。そのつながりとは、同じ時代を生きて直接的に関係する横のつながりだけではなく、過去現在未来へと縦につながる、数限りない縁によって成り立っています。
そのもっとも身近な存在として私にその「いのち」を繋げてくれた先祖がいます。その「いのち」とは、私がどんなに考えてもはかり知ることができないような大きな願いと奇跡のような無数の縁がつながり、今この私一人のために届けられた「いのち」であるということです。その「いのち」の声が「南無阿弥陀仏」のお念仏の一声であります。
現代では、そのつながりが横も縦も非常に感じにくくなっています。法事が執り行われる際には、その亡くなった方に縁ある家族、親族が集まります。今をともに生きる者が前を生きた方を弔い、その家の伝承をまた次の世代へと語り継いでいきます。今を生きる私の最も身近なつながりがそこに具体的にあらわされているのが法事の場ではないのかと思います。
縁ある者がそろって『正信偈』を唱和し、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える。目には見えない深い願いによって紡ぎだされたつながりがそこで成就することになります。私たちの浅い考えや理屈を超えたそこに、私という人間の本当の存在意義があるのではないかと思います。
そして、その家その家には、その「いのち」のつながりの壮大な物語が必ずあります。いろんな意見はあるかもしれませんが、少なくともこれまで檀家制度によって支えられてきたお寺には、その家の数だけの物語を語り継いでいかなければならない義務があったのではないのかと感じました。
冒頭の男性のお叱りをただただ拝聴させていただき、「おっしゃるとおりです。」と深くお詫びしました。