法話:「鯨の肉」
「鯨の肉」 恵林寺 釋 信生(荒山信) |
以前ある先輩から聞かせていただいた禅問答である。
「鯨の肉で精進料理を作ってみよ、但し、鯨の肉は、どのように使っても構わない、さあ、どう作る?」という問である。
鯨の肉と言えば生臭の代表である。
精進料理は言うまでもなく生臭を使わない。
では、どのように鯨の肉で精進料理を作ることができるのか、そこで答が解らなくなるわけだが・・・
答を申し上げれば「鯨の肉を売って大豆を買えばいい」である。
答を聞いて「なんだ そんなことか」と思われた方もおいでになるであろう。
私自身も「鯨の肉をいかに油抜きして料理を作ろうか」などと料理方法ばかり考えた。料理方法を一日考えていても答は出てこないのである。
鯨の肉を手離せばいいのである。この発想がいかに逆立ちしても私の理知分別からは出てこない。
人間は自分が大事に持っている考え・価値・経験を握りしめては自分を超えていける道はひらかれないのである。
自分が縛られているのである。せっかく大きな世界をいただきながら結局その世界に出遇えなくなってしまっているのではないか。
親鸞聖人は『浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし』とご和讃の中で述べられている。浄土真宗という大きな世界に出遇いながら、その世界を自分の理知分別(自己関心)で捉えようとする。
つまりお念仏を自分の解釈の中に閉じこめてしまう。それを聖人は、「真実の心は私のどこにもない」とおっしゃるのである。
しかもそのめざめにおいて、いよいよ人が人として生きる道を訪ねていかれるのである。