法話:「食う」と「食べる」
「食う」と「食べる」 上宮寺 釋 誠道(長谷川誠) |
テレビを見ていると、どのチャンネルでも食べ物を紹介するグルメ番組なるものが流れています。タレントが各地のおいしい料理を紹介するということで、見ている私たちも思わず「おいしそう」とため声が漏れてしまいます。
しかし、そういうグルメ番組でも気になる言葉が最近よく流れてきます。それは「食(く)う」という言葉。主に男性タレントが使っていますが、旅先で地元の名物を「これ食っていいですか?」と言って口にほおばり「うまい!」とコメントする場面はグルメ番組の常道といえます。
その「食う」という言葉は「食べる」の男性言葉で少し乱暴に言っただけという説もありますが、どうも気持ち的にしっくりこないのは私だけでしょうか。
調べてみると、「食う」とは食べ物をかんでのみ込む行為そのものを指し、いわば生物としての本能を表しています。そして「食べる」とは「賜る」という意味の「給(た)ぶ」が転じたもので、そこには食べ物を「いただく」という意味が込められているそうです。
私たちは口から食べ物を取り込んで「いのち」を保っています。ですから食わなければ生きていけません。しかし、その食べ物は何かといえば、他ならぬ私とは別の「いのち」です。私たちは他の「いのち」をいただいて、私の「いのち」としているのです。
真宗大谷派では食事を食べる前に次のような言葉を言います。「み光のもと 我 いま幸いに この浄き食を受く いただきます」。仏様の教えのもとでは平等のいのちを生きていると教えられる私たちではありますが食べなければ生きていくことはできません。しかし、いま幸いにも、この私の身となり、いのちになってくださる尊い食事をいただくことができます。しかし、それは他のいのちをいただくことでもあります。そのことに思いをめぐらせ、心してこの食事をいただきますという意味でしょう。
「食う」と「食べる」。小さなことかもしれませんが、私たちが生きていく上で一番大切なことだからこそ、「いただく」という気持ちを大切にしたいものです。