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仏教をふつうのことばで語ること、そしてわかってもらうこと。
それは、安順寺の願いです。


お内仏の話

沖縄の願い

帰敬式を受けよう

生死一如 不安を楽しむススメ









数年前友人がお父様を亡くしてしまいました。 当然お葬式には行ったのですが、2〜3日して改めて自宅へお参りに行かせてもらいました。 友人の家には新家(分家)さんなので中陰壇が飾ってあるだけだと思って伺ったのですが、すでにお内仏があり、それも新しいものではなく、30年以上が経過したと思われるほど年季の入ったものだったので、私は少々驚かされました。

私はお内仏のことが気になったので友人のお母さんにそのことを尋ねてみました。 お母さんの話によると、それは40年ほど前、新家として今の家を建築したときに、実家のお母様が、友人から言うとお婆ちゃんが、「一軒家を構えた以上お内仏がないというわけにはいかないんだよ。」といってプレゼントして下さったものだということでした。 そしてお婆ちゃんは「これで孫にも手を合わせることを教えなさいよ」といい、最後に「だいたいお内仏のない家なんて犬小屋と一緒なんだからね」とおっしゃったということでした。

この話を聞いて私はとても驚かされました。 お内仏があってこそ家が家となり、お内仏に手を合わせることをもって人間が人間となる。 そして仏様に手を合わせることのない人間は犬畜生と一緒だという言い方です。 このお婆ちゃんにとってお内仏とは、単にお亡くなりになったご先祖をお祀りする壇というだけなのではなく、我々一人一人が人間性を回復するため、そして人間が人間として成長するために欠かすことのできない、大切な宗教的施設として認識されていたということではないでしょうか。





沖縄は今から60年前、先の大戦のときに国内で唯一地上戦を経験しました。 沖縄での戦争は悲惨を極めたと言います。 米英軍の船で沖縄の海が見えなくなったと言われるほどの大軍が押し寄せた上に、守ってくれるはずの日本軍は、沖縄の人をスパイ扱いにし、避難場所から追い出し、果てには虐殺までしたのです。 沖縄戦とは日本軍にとっては本土を守るための捨て石作戦でしかなかったのです。

沖縄本島南部の摩文任(まぶに)の丘には、沖縄戦で亡くなった約24万人の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」という石碑が立てられています。 世界の恒久平和を願って立てられたその記念碑には、沖縄の人々はもちろんのこと、敵国であったアメリカ軍やイギリス軍の人々も、そして沖縄の人には裏切り者でしかなかった日本軍の人々の名前も刻み込まれています。 「平和の礎(いしじ)」とは、国籍を一切問わず、敵も味方も問わず、また軍人であるか民間人であるかも一切問わない、すべての人々を包み込んだ平和のための記念碑なのです。

日本軍によって日本人としての扱いも受けず、日本人の中ではある種一番の戦争被害者であるはずの沖縄の人々が、決して晴らすことのできない怒りや恨みの気持ちを乗り越えて、すべての人々の名前を刻み、後世に伝えるという選択をしたのです。

仏教には一切衆生という言葉があります。 ありとあらゆる人々を差別することなく、また排斥することもなく、すべて救って下さるという仏様の願いが込められた言葉です。 この沖縄の「平和の礎」に込められた願いに、我々仏教徒が忘れかけている一切衆生という仏様の価値観を教えられた気がします。




「帰敬式」とは「おかみそり」とも呼ばれ、お釈迦様の弟子となる、すなわち仏教徒となることを誓う儀式です。 また仏弟子としての名前である「法名」が授けられます。 多くの方は、通常亡くなってからお葬式の時におかみそりを受け、法名を頂けばよいと思っておられることでしょう。 しかし、法名とは仏様の教えを宗として人生を生きることを自らが誓うことによって頂くものですから、存命中に頂くのが本来です。 亡くなってから頂けばよいというものでもなければ、亡くなった人に与えられる別名でもありません。

今の日本では一部を除いては、人が名前を変えるという習慣はなくなってしまいました。 昔は幼名から元服して名前を変え、自分の生き方を替えたことを内外に表明してきたのです。

帰敬式は、仏・法・僧の三宝に帰依し、仏弟子として新たに出発をする式です。 これは名聞(みょうもん)・利養(りよう)・勝他(しょうた)という「三つの髻(もとどり)」を断つことを意味します。 すなわち名声、財力、権力を求めてやまない我々の価値観や、自分の欲望を満たすことだけを人生の喜びとしてきた人生観から、人生の方向を転換し、それと対局にある仏様の願いの世界……すなわち真の解放と連帯を求める生き方に転換し、そのことを内外に表明する法名を名告るという意味があるのです。

皆様も「おかみそり」を受け、仏様の教えによって確かな人生を歩み出すことを誓い、共に仏道を歩もうではありませんか。




僕は朝起きるのが大の苦手だ。寺の住職なんかしているので、暗いうちから起床して本堂でお経を読み、庭掃除などをしているように思われがちだが、僕の朝は全く違う。毎日妻に何度も起こしてもらい、やっと起きている。起きなければ、まだ寝たい。ふたつの気持ちがせめぎ合う、毎朝の儀式のように。本当は起きたくないのに……と思いながら、最近少し重たくなってきた体を無理矢理起こしている。

なぜここまでして毎日起きるのか。それは不安だからだ。仕事をせずに寝ていたら門徒さんの信用を失ってしまう。信用を失えば住職の不信任案が出されて、職を失うことにもなりかねない。職を失えば金が稼げなくなり、金が稼げなければご飯が食べられなくなってしまう。ご飯にありつけなければ死んでしまうかもしれない。つまるところ、死ぬかもしれないという「不安」が、僕を毎日起こしてくれている。

僕らにとって「死」は、嫌なことの象徴だ。愛する人や親しい人を奪い取り、悲しみの底にたたき落とす。僕らは死という言葉を聞いただけで心が凍り付いてしまう。空虚感や喪失感にさいなまれ、生きる希望さえなくしてしまいそうになる。死は人生にとって最大の敵であり、悲しみという爪あとだけを残していく邪魔者だと僕らは思っている。

しかし、僕らがもし死なずにすむことになったらどうだろう。僕はきっと安眠を貪り、毎日起きなくなるに違いない。門徒さんに信用されなくなり、職を失い、金が稼げなくてご飯を食べることが出来なくなっても一向に構わないのだ。死なないのだから。不死の世界は、不安が無くなり安心だけが残る楽園のように見える。だが死なずにすむという世界は、人生に何も意欲が沸いてこない、時間だけがいたずらに過ぎる地獄なのだろう。あたかもゴールのないマラソンを走れといわれているみたいに……。僕はついさっき「死は生の最大の敵」だと言ったばかりだが、「死が僕らを生かしてくれている」とも言えるわけだ。

生と死。僕らはこのふたつを正反対で、矛盾する事柄だと思っている。しかし、生きることは常に、死ぬことと隣り合わせだ。人は生まれてきたから、死ななければならない。生と死は無関係ではなく、常に関係しながら存在している。死ぬのは怖いことかもしれない。だが、死があるからこそ、僕らは人生という限りある時間を楽しみ、生きられるのだ。どうせ生と死を切り離すことができないなら……と、開き直った気分で「不安を楽しむ」のもいいんじゃないだろうか。

僕らは死を抱えて生まれ、死を抱えながら生きている。死ぬために生きる。そして生きるために死ぬのだ。仏教は「生と死は一つの如し(生死一如)」という言葉で、このことを僕らに教えようとしてくれているのだと思う。

夜も更けてきた。そろそろベッドに入ることにしよう。明日も死への不安が寝起きの悪い僕を起こしてくれることを信じて。







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