「他力縄」に縛られないこと

「他力本願」という言葉は、一般社会の中で誤用がまかりとおっています。「棚からぼたもち」「他人の褌ですもうをとる」のような、他人の力をあてにする、とか、自分で努力することをしない、のような意味で使う人が多いのです。

かつてオリンパスが新聞広告で「他力本願から抜け出そう」というキャッチコピーを使用した時、真宗各派が抗議した結果、同社がそれを謝罪して撤回した経緯があります。いっぽうでは、石原慎太郎東京都知事は、「他力本願ではダメ」と繰り返し発言し、その誤用を指摘され、また誤用であることを知りながら、「敢えて悪い意味で使っている」らしいのです(五木寛之氏が知事と対談して、そのことを証言しています)。いかにも石原氏らしい、といえばそれまでですが、このことが他力本願を中心教義とする浄土教にはかりしれないイメージダウンを与えていることに気づかないのか、ひょっとしたら計算づくの発言なのか...

上述のような明確な誤用はすぐにそれと分かります。ところが、うっかりすると見過ごしてしまいそうな誤用もあるのです。五木寛之氏が著書『他力』の中で、「他力とは、目に見えない自分以外の何か大きな力が自分の生き方を支えているという考え方なのです。(中略)他力とは目に見えない大きな宇宙の力と言ってもよく、大きなエネルギーが見えない風のように流れていると感じるのです」と述べているのは、もっともらしく見えるだけに、また同氏が浄土真宗に理解があるらしく見えるだけに、よけいに困ったことです。僧侶でさえこれを受け売りする人が出てこないともかぎりません。

こうした、意図的にせよ無意識にせよ、誤用・誤解はどこから生まれたのか。ひょっとすると部分的には、他力浄土教徒の言動にあるのではないか、と思わないでもありません。つまり、一部の他力浄土教徒は、自らの意思や努力を完全に放棄することが正しい信心のありようだと信じ込んでしまったのではないでしょうか。彼らは「あるがまま」というフレーズを好んで使います。自力を否定したいという思いに縛られてしまっています。

人間が生きていく上で自力を放棄することなどできませんし、すべきでもありません。「あるがまま」に生きていれば赤ん坊と同じ、または動物と同じです。まさかこうしたことで「虚心坦懐」の境地が得られるとでも思うのでしょうか。働いたり勉強するとき、まとめていえば、生きるのに自力の限りを尽くすのは当然のことです。「あるがまま」というのは、「如実」の翻訳だと思われますが、これは「如実知見」(あるがままに知見する=自分の偏見や願望を交えないで客観的に観察する)ということであって、「あるがままがよい、それを変える必要はない」という意味ではありません。

「生かされて生きる」これもしばしば目にする表現ですが、注意が必要です。人間は一人では生きられない、周りの人々のおかげで、また自然の恵みのおかげで生きていけるわけで、それを「おかげさまで」と感謝することは至極当然ですが、このこと自体は仏教とは関係ありません。あえていえば、「縁」(今日の言葉で言えば「条件」)として示されているものがそれに相当するかとも思いますが、縁起の理法・因縁生起とは、厳然たる事実をいうことであって、感謝しなさいよ、という道徳論ではありません。じっさい、もし誰かに身内を殺されたとして、それも何らかの縁がはたらいたわけですが、それを誰かに・何かに感謝することなどできますか?台風やハリケーンで亡くなった人々に「自然のおかげで生きていけるのだから自然に感謝しましょう」と説くことは、私にはできません。

他力本願とは、阿弥陀仏の本願の力によって私が浄土へ往生させていただける、ということ、このこと一点なのであって、私の一挙手一投足が阿弥陀仏によって決定されている、などということではありません。五木氏のように、「目に見えない大きな宇宙の力が自分を支えている」と考えることは、自然崇拝につながってしまうのではないでしょうか。自然環境がマイルドな日本では自然崇拝が受け入れられるのかもしれませんが、阿弥陀仏は大自然とか大宇宙とかのようなものではありません。仏と自然を混同するのを汎神論といいますが、そのような思想は浄土三部経にも親鸞聖人にも見出すことはできません。

なんでもかんでも「他力」にしてしまうのは危険思想です。自然も他力、業縁も他力、ということになってしまうと、ついには念仏する自分、苦悩する自分、救われるべき自分、一切が消滅していきます。これはニヒリズムです。親鸞聖人は他力を説きましたが、人間の立場を確保しています。すべてを阿弥陀仏のはたらきに解消させた一遍上人(時宗の宗祖)の徹底した他力思想には凄みを感じさせますが、人間が不在なのです。

小林一茶は熱心な浄土真宗門徒でした。一茶の句に「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」というのがありますが、「あなた」とは阿弥陀仏のこと。「年の暮れ」とは自身の晩年でしょう。浄土へ往生できるかどうか自分には確かなことは分からないけれども、ともかくも阿弥陀様におまかせします、ということなのです。その一茶が、「他力信心他力信心と 一向に他力にちからを入れて頼み込み候輩は つひに他力縄に縛られて 自力地獄の炎の中へぼたんとおち入候」と皮肉をこめて言っていることの意味を考え直してみたいと思います。

(2005年10月3日脱稿)