「五十三仏」とは、無量寿経に過去五十三仏として登場する諸仏です。すなわち、錠光如来が世に現れ、次に光遠如来が現れ、次に...と合計五十三の仏の名が列挙されます。五十四番目は世自在王如来であり、この如来を師としたのが法蔵菩薩、すなわち後の阿弥陀如来である、このように釈迦牟尼如来が弟子の阿難に語った、と無量寿経に書かれているのです。

ところで、華厳経・入法界品では善財童子が発心して五十三人の善知識(師の意味)を求めて歴訪する、という話があります。古来そのドラマチック性が好んで文芸作品にもモチーフとして取り入れられてきましたし、「東海道五十三次」もこれに由来しているのだとか。

してみると、無量寿経の過去五十三仏と華厳経の五十三善知識とは何か関係があるのでしょうか?文献的な知識のない私には分かりません(既に考証済みの問題かもしれませんがそれも私には分かりません)。ただ、過去五十三仏がタテ軸(時間軸)に並ぶことで仏法の歴史的普遍性<いつでも>を表しているとすれば、その一方で五十三善知識がヨコ軸(空間軸)に並ぶことで地理的普遍性<どこでも>を表している、ということではないでしょうか?もちろん、一方は仏であるのに他方は菩薩だ、という違いはあるのですが...

私はここで、私にとっての大切な師を五十三仏(善知識)として挙げ、それらの方々から教えられたことや私の思いをすこしずつ語っていこうと思います。遠い過去に亡くなられた方は無量寿経でいう五十三仏、私とほぼ同時代の方は華厳経でいう五十三善知識、ということになります。本来ならば、筆頭には釈尊が挙げられてしかるべきですが、ちょっと遠慮して別格扱いです。

下のリストではまだまだ53人にまで及びませんが、これから増えてくることを願っています。お名前に敬称をつけていませんが、聖人・禅師・老師・先生等々で区別する基準が私には分かりませんので、いっそのこと省いてしまいました。

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Nāgārjuna
親鸞
道元
秋月 龍みん(王民)
Tich Nhat Hanh
尾畑 文正
袴谷 憲昭
只石 智津子
佐村 隆英
柴山 全慶
Gunnar Gällmo
浅野 三智
石伏 叡齋
渡邊 愛子
鈴木 徹衆
藤場 俊基
小川 一乗