佐村隆英さん

1940-2003
曹洞宗僧侶。千葉県本光寺住職。曹洞宗研究員。日本仏教エスペランチスト連盟前理事長。読売カルチャースクール講師。著書に『勝鬘経物語』『道元禅がよくわかる本』(共著)など。

生前は佐村さん、と「さん」付けでお呼びしていたので、ここでもそれで通させていただきます。

佐村さんとお目にかかったのは、1991年でした。「エスペラント全国合宿」というのが毎年行われていて、この年は埼玉県で開催されたのですが、参加者は60-70人くらいだったように記憶しています。私はこれに講師の一人として参加していました。夜になると恒例の飲み会で、「パラディーゾ」(パラダイス)と名づけられた部屋では、有志が夜を徹して呑みかつ語り合うのです。

その中に、ひときわ大きな声・スキンヘッドで目立っていたのが佐村さんでした。彼は別のクラスの生徒だったので、この時が初対面です。僧侶だからスキンヘッドなのは当然なのですが、私はその時は正体を知らず、食い詰めた芸能人かと思ってしまいました。誰かが私のことを佐村さんに「彼も坊さんなんだ」と紹介すると、大喜びされてむしろ私は困惑したのです。そして早速に、滔々と「日本仏教エスペランチスト連盟」(JBLE)について紹介され、私はその勢いに押されて「入会します」と答えてしまいました。

当時私はエスペラント運動の最前線、とまではいきませんが第二線くらいで活動していましたので、JBLEの存在は知っていましたが、これに加わるつもりは全くなかったのです。というのも、他にいくつものエスペラント組織に加わっていましたし、仏教に自覚的に関わっていくことをためらっていたこともあります。そんなわけで、その後しばらくは会員にはなっていましたが、自分から会合に出るとか、機関誌に投稿することはしませんでした。

そんな私が、JBLE機関誌の編集をすることになり(というのは、前の編集長が高齢で引退し、その後任に困っているというので、「ワープロ打ちくらいならしてもいい」と返事をしたら、いつのまにか私が編集長になってしまった)、その担当の2号目が300号記念ということで、私も慌てて機関誌のバックナンバーをとりよせ、JBLEの歴史を丹念にひも解くこととなりました。この時の感動については別のところで書くつもりですが、ともかくこの時から、私のJBLEへののめり込みが始まりました。これが1998年のことです。その前年に私はそれまでの私塾教師を辞して自坊で法務を始めていましたので、仏教についても学校時代のひととおりの知識ではまにあわないことをさとり、懸命に仏教書を読みあさっていました。ですからこのころが、私の発心の時期といえるでしょう。

佐村さんに二度目にお会いしたのは、1999年、長野での日本エスペラント大会のおりでした。私は「大会」と名のつく集会に出るのを好まない性質でしたので、それまで敢えて参加を拒否していたのですが、このときは佐村さんはじめJBLEの主立ったメンバーに会いたくて出かけました。私は彼に、自分の仏教への思い、といってもせいぜい2年くらいの勉強による付け焼き刃の知識によるものでしかないのですが、を語りました。今から思えば、ずいぶん生意気なことを言っていた、と赤面する思いです。しかし佐村さんは、ご自身駒沢の大学院で学ばれ、日本印度学仏教学会にも論文を書いておられたくらいの学究であったにも関わらず、私の言うことをじっと聞いて下さいました。そして「そういうことを今の仏教界で大いに議論していかないといけないね」とおっしゃられたのです。あまつさえ、一回り以上年下の私のことを「山口先生」と呼ばれるのです。率直に言えば、佐村さんと私とではその仏教理解に大きな差がありました(単に宗派の違いのことではありません)が、そういうことを忘れさせるほど包容力の大きな方でした。

以後、私はいよいよJBLEにのめり込み、機関誌編集だけでなく、出版のこと、ウェブサイト立ち上げのこと、公開集会のこと、国際仏教エスペランチスト連盟再建のこと、などを手がけていきましたが、それというのも佐村さんという大きな後ろ盾があったればこそでした。「自分が責任を取るから、いいと思うことをどんどんやって下さい。信頼してますから」というお言葉がどんなに励みになったことでしょう。

それゆえ、2003年に佐村さんが急逝されたことは、私にとって大きな痛手でした。小さな子が頼るべき親を亡くした、そんな気持ちです。しかし、佐村さんがなくなる直前に、私に後事を託すと遺言された、そのお気持ちに応えることが恩返しになると信じています。