今年の8月に長男が得度した。それで「得度奉告法要」の案内を門徒のみなさんに差し上げると、たいていは「跡継ぎさんができてよかったですね」という反応を返される。私はそれに対して、「いや、将来のことは分からないですよ」と答える。
一般には、僧侶=寺に住んで儀式を執り行ったり説教をしたりすることによって生計を立てている者、という認識があるようだ。しかし、寺に居住していない僧侶も少なからずいるのだ。現に、私の知人は僧侶であって団地に住んでいる。職業は銀行員である。彼にとっては、僧侶とは職業ではなく生き方になっている。だから、私の長男が将来寺を継がないで別の仕事についても一向にさしつかえない、と思っている。
「僧侶」の語源は、「僧伽(サンガ)の侶(なかま)」、サンガ(saṃgha)とは教団という意味である。釈尊在世時の僧伽=教団は、男性出家者(ビク)・女性出家者(ビクニ)・男性在家信者(ウパーサカ)・女性在家信者(ウパーシカ)の四つのカテゴリから成り、これを僧伽の四衆と呼んだ。今日の日本仏教では、出家者は極めて少数であり、真宗大谷派教団には存在しない。門首さんも含めて全員が在家である。創価学会は在家者教団だといわれるが、なんのことはない、真宗各派はじめほとんどの仏教教団は在家者教団なのだから、創価学会だけが特異な存在というわけではない。
真宗では、教団のメンバーは「門徒」と呼ばれる。だから僧侶も門徒である。大谷派宗憲では次のように定めている。
第七十九条 得度式を受け、僧籍簿に登載された者を本派の僧侶という。
2 僧侶は、佛祖に奉仕し、教法を研修宣布し、つねに真宗本廟崇敬の念をたもち、宗門並びに寺院、教会の興隆に努めなければならない。
第八十二条 教法を聞信して真宗本廟に帰敬し、寺院又は教会に所属する者を本派の門徒という。
2 すべて門徒は、帰敬式を受け、宗門及び寺院、教会の護持興隆に努めなければならない。
両者に決定的な違いがあるとも思えないのだが、あえて違いの大きな点をあげれば、「教法を聞信」するのが一般門徒、「教法を聞信し」かつ「教法を研修宣布」するのが僧侶、ということなのだろう。さらに、儀式を執行できるのは、僧侶の中でも教師という資格を得た者に限られる。ただ、教師になるためには、試験に合格するか、教団経営の学校を卒業していないといけない。
このような、門徒 - 僧侶 - 教師 -住職という序列については今は問わない。しかし、ほとんどの教師が職業僧侶としてお布施をいただき、それで生活しているうちに、自分も門徒のひとりであることを忘れがちになるのではないか。寺が商店化し、住職が店主、教師が店員、非教師僧侶はアルバイト、門徒がお客さん、という関係になってしまってはいないか。お経が商品になっているのではないか。現に、「お経料」という言葉が違和感を持たれなくなりつつある。
聞法道場であったはずの寺が個人商店化し、ブッダの教法が商品化してしまった原因は何か?江戸時代の檀家制度とか、いろいろなことが考えられるけれども、僧侶・住職の世襲ということが問題だと私は思う。「血脈相承」という言葉がある。本来は、「師から弟子へと法が代々伝えられていくこと。またはその系譜」のことで、「師資相承」ともいう。ところが浄土真宗では、宗祖が結婚して子をなしたことから、その子孫が法主ということになってしまった。「血脈相承」が文字通り血のつながりになってしまったのだ。在家教団を標榜しているのだから、結婚して子をなすことはよいとしても、なぜ子が法統を継ぐ道理になるのか、私には分からない。法主(大谷派では現在は門首という)だけでなく、ほとんどの寺院住職は世襲になっている。こういうことが続く限り、寺が個人商店化し、住職家族のマイホームとなり、住職の私有物となっていくのは避けられないのではないか。
かくいう私自身が寺に生れ、候補衆徒(住職後継予定者)となっているのだから大きなことは言えないが、寺に生まれたのは私の責任ではない。ただし教師になり、職業僧侶になったのは私の責任、私の選んだ道である。である以上は、せめてプロ意識を持たねば、と思う。「教法を聞信し研修宣布」するプロになりたい。法施ができるようになりたい(法施と財施は等価交換ではないので、財施に見合うだけの法施をしたい、という意味ではなく)。
もう一つ望むこと。ノンプロの僧侶が増えて欲しい。ノンプロというのは、それを生計の手段にしていないというだけであって、プロよりも劣る、ということではない。ノンプロが増えてくると、プロにとっても刺激になるだろう。また、それだけ裾野が広がるわけだから、プロ集団だけではできないこともできるようになるかもしれない。何にしても、従来の[僧侶=売り手] vs [門徒=買い手] という二項図式を打ち破る力になるのではないか。
(2005年10月5日脱稿)