私は、けっこう言葉にこだわる性質ですので、他の方々からすると、「そんなうるさいこと言わなくても...」と思われるかもしれませんが、気になることば、そしてそれにまつわる考え方をとりあげて、ちょっと雑談してみたいと思います。
「精進落とし」とは食事のことですね。元来、葬儀が終わって四十九日目が忌明けになりますので、そこで供される食事を「精進落とし」と言いました。それまでは、一切肉食を絶った精進料理だったのです。最近は、一日でも早く肉魚を食べられるようになりたいと思うのでしょうか、四十九日ではなく、七日目(つまり初七日)の食事で肉魚を食べてもいいことにしてしまって、さらに、都市部では、初七日を七日目ではなく葬儀の直後に行う習慣が定着したため、結局のところ、精進料理など最初から出てこないわけです。つまり肉食を絶つ意思などなくなってしまったのでしょう。だったら、「精進落とし」なんて言う必要なんかないではありませんか。
そもそも「精進」って落ちたり落としたりするものなんですか?「精進」とは、仏教では八正道の一つ、ないし六波羅蜜の一つで、修業につとめはげむとか、悪を断ち善を行うという意味ですよ。その精進を落としてしまったら、私は怠惰な人間になりますとか、平気で悪を行いますと言っているようなものです。少なくとも仏教徒なら、精進を落とすべきではなく、もし落ちてしまったら拾い上げてちゃんと身に付けてください。
それでは、肉食を断つことと精進とはどんな関係があるのでしょう?これは、仏教では肉食を禁止しているから、肉食しないこと=生き物の命を奪わないことが精進の具体的な表現だ、と思われたからです。ご存知でしたか、日本と中国の仏教が肉食や酒を禁止している、って?そういえば、ウサギを一羽二羽と数えるのは、「獣肉は食べちゃいけないって偉い坊さんが言うけど、鳥なら食べてもいいんだよね...ウサギくらいなら食べてもいいんじゃない?そうだ!ウサギは動物じゃない、鳥だ!鳥だ!鳥だ!食べよ...」こういう屁理屈の上にできた言い方だったのでした。ちなみに、鳥も魚も食べてはいけません、と偉い坊さんたちは言ったはずですが、あまり庶民には通じなかったようです。もっとも、偉そうなことを言っていた坊さんたちも、こっそり肉を食べたり、酒を飲んだり(これは酒じゃない!般若湯という!とか言って...)、あげくのはては女を囲ったりしてたものだから、あまり強いことは言えなかったんでしょうね。
私が何を言いたいかというと、ごまかしはやめましょう、ということなんです。精進なんかもともとしてないしするつもりもないのに「精進落とし」と言ってみたり、ウサギを鳥にしてしまったり、酒を般若湯にしてみたり、山門に「不許葷酒入山門」なんて書いてるくせに平気で酒を飲んだり...こういうごまかしは大嫌いです。あの看板、いいかげんに撤去したらどうなんですか!
親鸞が偉かったのは、ごまかしをしなかった、ということです。肉も堂々と食べたし、結婚もしてしまった。僧侶が結婚するなんて!と当時の仏教界に衝撃がはしりました。破戒僧といわれ、ののしられました。今どうですか?いくら明治政府が「肉食妻帯勝手たるべし」とおふれを出したからといって、肉食や結婚はすべきでないと信じているなら、あくまでも菜食主義・独身主義を貫いたらいいじゃないですか。
真宗の場合、宗祖が肉食妻帯しているものだから、もともと精進料理なんて存在しませんが、それにしてもあまり酒を飲みすぎたら駄目だ...と最近は思うようになりました。真宗には戒律はないのだから何をしても平気、というのは、戒律の意味を考えたことがないからではないでしょうか。無戒の上にあぐらをかいていてはだめじゃないですか。
菜食主義といっても、実のところ、生き物(植物)のいのちをうばっている事実にかわりはないのです。私たちは、他のいのちをうばわないで生きていくことはできません。菜食主義であろうがなかろうが、生きるということは宗教的には罪悪なのです。問題はその罪悪をどれほど意識できるか、ということでしょう。それを自覚した上での菜食主義はすばらしいですが、無自覚な菜食主義はごうまんです。ただし、本来の意味のベジタリアン(「菜食主義」よりも広い意味で)には、不殺生以外に重要な意味がいくつかあり、それは考えるべきかもしれません。例えば、環境問題、食糧資源、健康、人格への影響のようなことです。
最後に、ちょっと落ちをつけようかと思うのですが、仏教では肉食を禁止、というのは実は嘘というか、中国の僧侶の誤解です。釈尊も肉を食べていました。鍛冶屋のチュンダが用意した豚肉(sUkara-maddava)を食べて腹痛をおこした、と信頼すべき仏伝(律蔵大品)に書いてあります。いや、あれは豚肉じゃなくてキノコだ、という人もいますが...「五種浄肉」とか「九種浄肉」といって、厳格な手続きを経た上で供される肉は食べてもいいのでした。イスラム教にも似たような考え方がありますね。そもそも、デーヴァダッタ(提婆)、この人は釈尊に対する反逆者として悪名高いのですが、ある意味で律法主義者で、戒律をより厳しくすること(肉や魚を食べない、牛乳やバターもだめ、など)を提案して、教団によって拒否されたわけです(それを契機に彼は分派を作るのですが、だからこそ彼には必要以上に汚名が着せられています)。ということは、菜食主義というのは、もともと仏教の採らない考え方なのです。ただし酒は飲んだらだめ、これは変わりません。なぜかというと、酒は理性をうばい、ものを考えられなくする魔性があるからです。
「殺すまい、盗むまい、不倫すまい、嘘をつくまい、酒を飲むまい」これは五戒といって、出家在家をとわず行為規範とされているものです。私など、失格なわけですが...不飲酒戒を守らぬ私でも阿弥陀さまは救って下さるのだとか。それなのに、それをありがたいと思えない私。その証拠にまた酒を飲んでしまいました。
(2006年1月21日脱稿)