釈尊が八十歳という高齢に達し、アーナンダが教団の行く末について問いただしたとき、釈尊は次のようにお説きになりました。
「自らを灯とし、自らを拠り所として、他人を拠り所とすることなく、また法を灯とし、法を拠り所として、他を拠り所とせずして修行せよ。」
「自灯明 法灯明」といわれるフレーズで、仏教においてはカリスマが否定されることの根拠としてしばしば引用されます。釈尊はまた、「私は教団を指導しようなどと考えたことはない」とも言われました。もちろん、釈尊には大勢の弟子があり、日々に教えを説き、そこに師弟関係があったことは事実ですが、それは自らが見いだした真実をより多くの人と共有するためであって、自分を崇拝せよということでは決してないのです。
いっぽう、「仏と法と僧」への三帰依はすべての仏教徒の証となるもので、今に至るまで脈々と守られてきました。仏とは法にめざめ法を体現した人、法とは真実、僧とは法を守り伝えるための教団です。釈尊在世時は、仏は特定の人間を意味しなかったのですが、その後、釈尊こそ仏であることになりました。しかし、「自灯明 法灯明」とあわせ考えるならば、法こそが中心であることは明かでしょう。仏像を作ったにしても、あくまでも法の象徴なのであって、象徴であれば仏旗であろうが法輪であろうが、構わないのです。じっさい、仏像を作り出したのは後世のことです。
ただし、チベット仏教は特殊で、三帰依に先立ってラマ(グル)への帰依があります。すなわち、帰依三宝ではなく、帰依四宝なのです。その理由については、「三宝の対象以上に法師を優先的に崇拝するのは、それが分離した、または四つ目の宝の対象だからではなく、弟子にとって、法師は三宝が一つに合体した生身の代理人だからである」と説明されています。ラマは活仏にして菩薩の化身だというわけです。誰をラマと認めるかについてはたいへん複雑な過程があるようなのですが、部外者からみると危険なような気がします。ダライ・ラマ14世は立派な方だと思うのですが、政治が介入することによってパンチェン・ラマが二人になってしまったり、という問題もあります。ツォンカパ(チベット仏教ゲルク派の宗祖)もそこまでの事態は予想していなかったことでしょう。
さて、浄土真宗においては帰依の問題がどのように考えられているのでしょうか。ある高名な真宗僧侶が「仏とは阿弥陀仏、法とは釈迦仏、僧とは仏仏相念」のこと、と書いてあるのをみてびっくりしました。仏教徒にとって最も大切な帰依三宝を、いかにご自分なりの理論的整合性があるからといって、解釈を変えてしまうことは傲慢すぎないでしょうか。仏宝とは釈迦仏、法宝とは浄土三部経、でなくてはならないでしょう。では、弥陀一仏帰依はどうなるのか。弥陀一仏帰依が三宝帰依と別ならば、浄土教は仏教ではありません。浄土教が仏教であるならば、弥陀一仏帰依と三宝帰依とは同じことでなくてはなりません。すなわち、日々の念仏・弥陀一仏帰依を展開分析すると三帰依になる、というべきでしょう。どこかに、永遠の昔から阿弥陀仏という存在があって、その名を呼べば阿弥陀仏が私を浄土に連れていってくれる、などというはなしではないのです。それならキリスト教と変わりありません。そんなことではなくて、「釈尊の仏言に従い(帰依仏)、経典を拠り所として(帰依法)、同朋とともに(帰依僧)、穢土に死して浄土に生きよ(古い自分の殻をやぶり、真実にうらうちされた自己を生きよ)」という阿弥陀仏からの呼びかけに応えるのが念仏であり一仏帰依であり帰依三宝だと、私は考えます。
「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」とは有名な歎異抄の一節ですが、これは、釈尊の「自灯明法灯明」や大乗仏教の「依法不依人」のカリスマ否定の精神をきちんと受け継いでいます。親鸞はいかなる意味でも、自分をグルだと自認したことはないのです。したがって、親鸞を師としてあおいでも、グルとして崇拝や帰依の対象にしてはなりません。仏壇には、本尊阿弥陀仏の左右に親鸞と蓮如の絵像が掛かっていることがあります。よくごらんになってください。親鸞も蓮如も正面を向いていません。阿弥陀仏の方を向いています。これは、親鸞も蓮如も「自分を拝め」と言っているのではないわけです。
ところが、歴史的には真宗がチベット仏教化してしまった事実があります。親鸞だけでなく、親鸞の子孫までもがグルの扱いを受けたのです。蓮如による親鸞伝(御俗姓)では、親鸞を阿弥陀仏の化身であるといっていますが、阿弥陀様もパンチェン・ラマに化身したり親鸞に化身したり、お忙しいことではあります(というのは冗談ですよ...)。そういえば、地方によっては、本願寺法主が巡業(「御親教」というらしい)した先で風呂に入り、その風呂の残り湯を飲むと病気が治るとかいって、これなんぞは麻原彰晃そのものという感じで、気持ち悪いですね。ひょっとして麻原は本願寺法主=活仏信仰を見習ったのでしょうか。
まあ今はそんなことはないわけですが。法主も今は門首(大谷派)・門主(本願寺派)と改名されて、門徒首座という位置づけになりました。しかし、重要な問題が残っています。それは「御影堂」のことです。御存知のように、東西本願寺だけでなく、真宗十派の各本山にはいずれも御影堂があって、そこには宗祖の木像がまつられています。しかも、御影堂のほうが阿弥陀堂よりも大きいのです。知らない人は、御影堂が本堂だと勘違いするでしょう。一般の寺であれば、本堂には御本尊阿弥陀仏がましまし、宗祖御影(絵像または木像)がその左側(私たちから言えば右側)に掛かっています。しかし本山だけはそうなっていないのです。報恩講などの重要な仏事は御影堂で勤められます。これっておかしくないですか?本山というのは根本道場、すべての寺のモデルであるべきだと思いますが、末寺が本堂よりも大きな開基堂を作ってそこで報恩講を行ったり、一般家庭が仏壇よりも大きな位牌堂を作ってそこで年忌法要をする、などということはありえないし、そんなことしたら本山から怒られるでしょう。しかし本山だけは別、なんでしょうか?こんなことを思うのは私だけかと思って長い間黙っていたのですが、ある時、思い切って質問してみました。答は「本願寺はもともと親鸞聖人の御廟所から発展したからです。」ちっとも答になっていないのですが、親鸞の子孫をカリスマ化することは克服しても、いまだ親鸞をカリスマとして崇拝する体質があるんでしょうね。
これは、真宗の他の僧侶の方々の怒りをかうことを承知で書いています。御影堂が本堂(阿弥陀堂)よりも大きいことに、もし正当な根拠があるならば、ぜひ批判をお願いしたいと思います。
(2006年1月31日脱稿)