御遠忌テーマへの疑念

この問題に関しては、もう少し早く卑見を述べたかったが、正直いってしんどい作業でもあった。しかし、本山が「イメージ言語としての〈いのち〉 」(武田定光氏筆、同朋新聞1月号)を公表するにいたって、御遠忌テーマのいかがわしさが私の中でも明確になったので、私としても言わざるをえない、という気持ちになった。

さて、御存知のとおり、親鸞聖人750回御遠忌のテーマを「今、いのちがあなたを生きている」とすると発表されたのが2005年5月20日であった。そして、それに続いて熊谷宗務総長は「法蔵精神に立つ」と題した所信表明演説を行った。

三つの方向から問題をさぐってみたい。

第一に、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、言語表現として明確でないこと。ようするに、何が言いたいのか分からない。何が言いたいのか分からないような表現は、言語=ロゴスとして失格であり、メッセージ(伝達)機能を果たさない以上、自己満足であり、閉鎖的であり、神秘主義とならざるをえない。そもそも、750という数字そのものは単に便宜的なものであって、750であろうが、713であろうがなんであろうが、真宗門徒が仏祖崇敬・報恩謝徳の念を保ち続けるのは不断でなくてはならない。あえて御遠忌というかたちでアドバルーンを放つのは、対社会的な広報という思惑があるからなのだ。であるならば、意味不明なテーマなど百害あって一利なし、ということだ。

なぜ意味不明なのか?まず、「いのち」が何を指すのか分からないということ、そして、「生きる」は自動詞だから目的語をとらないということ(ただし、「命を生きる」というような文学的表現を例外とする)。もちろんこのフレーズを考え出した人は、そんなことは承知の上で提案されたのだろう。問題はここだ。提案者にとってはこのフレーズによって意図された内容があっても、それを受け取る側のことを考えていない。破格な表現をすることによって、読み手が考えてくれるだろう、などというのは傲慢である。

真宗大谷派は外国にも門徒をもつ。私は、このテーマを英語・スペイン語・中国語でなんと訳すのか、と本山に尋ねたことがある。「お尋ねの件、確かに賜りました(ママ)。しかしながら、ご返答まではしばらくお時間をいただきたく、その旨ご容赦ねがいます」との回答が来てから三ヶ月が経過するが、その後なしのつぶてである。一般社会では考えられない事態だ。ある特定の文化圏にしか存在しないものを翻訳することはできない。しかし普遍的な概念について翻訳不可能ということはあり得ない。私は、自分が書く日本語は、すべていったん頭の中でエスペラントに翻訳することによって校正をしている。というのは、そういう作業を通じて、日本語としておかしな部分をかなりの程度除去できることを経験的に知っているからである。逆に言えば、翻訳に苦労するような文章は悪文である。

少々話が飛躍するが、いろいろなホームページを拝見する中で、正しいHTML文法に従っていないホームページが多いことに気づいた。それでもたいていのブラウザはそれを補ってみせてくれるから、制作者はまちがいを意識しないことが多い。しかしそれは、最近はやりのことばでいえば「アクセシビリティ」(受け入れられやすさ)に乏しいため、結果的にマイノリティ(Mac・Unixユーザー、視覚障害者など)を排除してしまうことになる。これは「法蔵精神に立たない」ことにほかならない。したがって、この御遠忌テーマは、非日本語話者を排除し、非真宗門徒を排除し、論理的精神の持ち主を排除しているところの、ジャーゴン(隠語)にすぎないのだ。これが第一の問題点。

このように思っていたところに、とどめの一発が来た。それが、冒頭にふれた「イメージ言語としての〈いのち〉 」である。全文引用するのはルール違反かも知れないが、どこをとっても問題だらけなので、お許しいただきたい。

「今、いのちがあなたを生きている」(御遠忌テーマ)の「いのち」ということがよく分からないとか、近頃はなにかというと「いのち」というけど、意味が分かって使っているのかと尋ねられることがある。「いのち」の語源的な意味は「い(息)+の+ち(力)」であり、「呼吸をして躍動する力のようなもの」をイメージしている。普段は、明確な定義をするわけでもなく、なんとなく分かって使っているのである。そうすると、そんな曖昧な言葉を御遠忌テーマに使ってよいのかという批判も出てくる。それに対しては、なかなか反論しにくい。なぜ反論しにくいかというと、実はこの「いのち」という言葉そのものが、「イメージ言語」だからだ。この言葉は心理療法家・河合隼雄の言葉である。彼は「イメージは生命力をもつが明確さに欠け、概念の方は明確ではあるが生命力に欠ける」(『イメージの心理学』青土社)と述べている。つまり、もし「いのち」という言葉が概念的に明確に定義されてしまえば、なんだそんなもんかということになり、「いのち」という言葉が保持してきた大切なイメージの世界が解体されてしまうことを教えている。現代は、「理性」が大手を振っている時代であるから、概念的に明確でないものは無意味だと考えがちである。しかし、概念的に分析されたものは、明確ではあるが冷たいデータの世界になってしまう。むしろ概念的に曖昧なものであるからこそ、「いのち」は私たちに強くはたらきかける作用をもっている。それこそ、理性よりももっと深いところにはたらきかける力をもっている。日本人が古代から大切に使ってきた「いのち」という言葉を、現代人が禁じ手にしてはならないように思われる。

執筆者の武田氏は、「いのち」が曖昧であることを重々承知しながら、これは「イメージ言語」なのだと言い訳し、河合隼雄氏の名を挙げて権威化しようとしている。が、それはむしろ逆効果だろう。河合隼雄氏といえばユング心理学者として有名だが、例の悪名高い「心のノート」の中心人物である。ここでは河合隼雄批判をしている余裕はないが、詳しくは
http://homepage3.nifty.com/gakuronet-takatsuki/soto_050924_01.html
をごらんいただきたい。生命力礼讃は、おおざっぱな言い方になってしまうが、生の哲学の特徴をなし、全体主義との関係が深い。たとえばベルグソンはイタリアファシズムに、ニーチェはナチズムに連なっているのである。以下、『哲学辞典』(青木書店)から引用する。

「この哲学は<生>を世界のいっさいの事物に優先させ根本的なものとみなし、これをとらえ理解するには合理的な知的認識では不可能だとして科学に背を向け、非合理的な直感や心情的体験によらねばならないと説く。ここに明らかにされる<生>とは、活動的、不断の躍動、多様な姿をとって現れるとし、人間の生もこれによって真に具体的、全的なものになると主張される。

ここに、生の哲学のいう<生>とは、御遠忌テーマのいうところの「いのち」とがほとんど同一のものであることが明らかになる。

武田氏は、「現代は、『理性』が大手を振っている時代である」というが、実態はそうではない。現代こそ理性への攻撃が強まっている時代はないのである。理性は、(哲学的な議論はひとまずおいて日常の用法では)ものごとを筋道立てて冷静に考える能力であり、感情や感覚と対になる。ファシズムが理性を嫌悪するのには理由がある。それは、人々が理性的に為政者の所業を批判したり自分の頭で考えたりするのでは都合が悪く、大衆操作をほどこすのには理性ではなく感情で動いてくれることを期待するからである。したがって、ファシズムはほとんどの場合ポピュリズムと連動している。ヒトラーも、ムッソリーニも、そしてここに同一に並べてもよいと思うのだが、小泉首相も、演説が上手く人気を博するための情報操作を心得ている。しかしその内容を冷静に分析してみれば、内容はないか、あるいはでたらめである。あの「ワンフレーズ絶叫型」手法を批判するだけの理性が欠けていることが小泉人気の原因である。

武田氏は、「いのち」をイメージ言語であると位置づけることにより、これが神秘主義ではないかとか、意味不明であるとかいう批判を意識して、それらの批判のいっさいを封じ込める作戦に出ているようだ。つまりこういうことだ、「いのちとは何か、などと分析的に考える必要はない。なんとなくイメージできればよいのだ。君たちみたいに、どういう意味か、などと騒ぎたてるのは冷たいデータ人間だ。」このように、理性を蔑視したところに御遠忌テーマが成立しているのが、問題点の第二。

念のためにいっておくと、私は何も、武田氏がファシストであるといっているのではない。しかしその考え方の根がファシズムを許容する構造になっていることは見逃せない。しかし、これは武田氏ひとりがそうだというのではなく、むしろ教団幹部のほうがより性質が悪いように思われる。熊谷宗務総長の所信表明演説を読むと、いたるところに理性への蔑視がみられる。事実の分析をなおざりにし、同朋会運動が築き上げてきたところの「教学の非神話化、家の宗教から個の宗教へ」を否定するようなレトリック...

武田氏と熊谷氏には、ウィトゲンシュタインの次の言葉を贈ろう。
「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。」

第三の問題点は、「いのち」の中身についてである。いろいろな「イメージ付け」なり定義づけが可能であるが、武田氏が「『いのち』の語源的な意味は『い(息)+の+ち(力)』であり、『呼吸をして躍動する力のようなもの』をイメージしている」と語っていることが、最大の問題である。この語源解釈が正しいかどうかはどうでもよい。ここでいわれているのは、仏教が否定したアートマン思想に他ならない。まさに、アートマンの語源は「呼吸」であり、そのイメージとは内在的なパワーであるのだから、この御遠忌テーマは「アートマンがあなたを生きている」としても、まったく意味が変わらないのだ。アートマンを否定し続けてきた正統仏教、そしてその伝統に連なる真仏教への真っ向からの挑戦であると私は受け取る。そうして、そこに何らかの超越的な存在が登場すれば、梵我一如のできあがりだ。いや、「生かされて生きる」を他力だと勘違いしている人が多いようだから、すでに限りなく梵我一如への道ができ上がっているのかも知れない。

御遠忌テーマの策定にあたっては多くの議論があったようだ。しかし実際にどのような議論があったのかは公表されていない。少数の反対意見を封じ込め、イケイケドンドンで事が進められたのだとしたら、熊谷内局は小泉内閣とかわらぬ体質をもっていることになる。

(2006年2月1日脱稿)