真宗は普遍宗教になれるか

過日、家族旅行でオーストラリアに行った。その折、現地のオプショナルツアーのスタッフと話をしていて、「あなたの仕事は何か?」と聞かれたので、「bonzeだ」と答えたら、よく分からなかったみたいだったので、再度「buddhist pastorだ」と言い直した。こういう言い方が正しいかどうか分からないが、彼は分かってくれて、「オーストラリアにも仏教を信じている人はたくさんいる。ダライラマが指導者でしょう」と言う。私は「彼はtibetan buddhism、私はshin buddhismで、所属が違う」と言っておいたが、彼がつっこんで「shin buddhismとは何だ?」と聞いてこなかったのは幸いであった。私にはそれ以上英語で説明するだけの語学力がないから。

欧米、南米では仏教はかなり盛んである。かつては、欧米で仏教といえば禅が代名詞だったが、今や、チベット仏教とテラワダ仏教も禅と並んで盛んである。しかし真仏教(真宗、shin buddhism)は、知識人階層を除いてほとんど知られていない、と言ってよい。

真宗教団は、「世界人類に捧げる同朋教団」を標榜しているし、私も理念的にはそれが正しい方向であり、かつそれが可能となるだけの教学を有していると思う。しかし、現実には真宗教団は日本の中で孤立している。それはなぜか。

本願寺派も大谷派も、海外にいくつかの開教拠点(別院)を有している。しかし、ある開教使の方がいみじくもおっしゃっているように、実際には開教ではなく追教である、と。どういうことかといえば、まったく教えの伝わっていない場所で教えを説き広める、布教する、のではなくて、海外に渡っていった日本人移民およびその子孫を追いかけて彼らのニーズに応えて年忌法要などを勤めるのが任務であったということだ。もちろん、その過程の中で非日系人とも接触し、開教という仕事を名実ともに実践している開教使の方々も多い。その御苦労は、日本で安閑としている私たちには想像できぬことも多々あろう。

問題は、現場の開教使にではなく、本山(教団中枢)にある。大きくいって二つの問題がある。一つは、意識的努力の欠如。私ごときが教団の行政の細部を伺い知るすべはないが、御遠忌ともなればうるさいくらいにキャンペーンをはるのに、どういう努力をしているのか末端にまで伝わってこないのは事実である。大谷派公式ホームページは日本語だけ。本願寺派は英語ページを設けているが、その内容は正直いって貧弱だ。一般書籍にしても、片手で数えられるくらいしかない。開教使育成や開教拠点設立のための具体的手だて(予算及び行動計画)はどうなっているのだろうか。

ここに、ハワイ開教使・藤森宣明氏による厳しい批判がある。

海外では、日本からの宗教団体で組織的に自分のところのメンバー以外にも教えを広めようと努力しているのは、BDK仏教伝道協会(元本派本願寺開教使沼田恵範氏創設)、SVA曹洞宗ボランティア、と新興宗教、特にSGl創価学会インターナショナルであリましょう。しかし、真宗大谷派は、組織的に、自分のところのメンバー以外に教えを公開したことがあリませんでした。(口では、「人類に捧げる教団である。世界中の人間の真の幸福を開かん」真宗誌一九六二年、といいながらも)では、どうして公開されず閉ざされてきたのか。それは、同朋会運動に問題があったのではないでしょうか。
http://www.mars.dti.ne.jp/~pa4k-tks/mug/mug2/Siryo.folder/kaigai.html

同じくハワイ開教使・坂田正孝氏は次のように述べる。

現状をよく観察しますと、どの仏教寺院も日系人への追教の場になっていることに気づきます。私は現状から次のように考えました。一世は日本人仏教、二世は日系人仏教、三世は米国仏教か?日本語の話せない三世四世の時代が到来して、初めて開教の意義が問われることになりました。しかし、三世四世はどんどん離れていくのが実情です。真宗教義の学習をとおして、民俗的な特殊な仏教から、世界的普遍的な仏教へと機能していくことが、これからの開教の課題です。
(「ハワイ開教の意義」『名古屋教学』」第11号, 1998年。下線は引用者による)

キリスト教が全世界に伝道師を派遣しているのと比べて、仏教側は努力が足りない、と言われることがある。一面その通りだが、仏教とキリスト教とでは、伝道についての考え方が根本的に異る。次に引用するのは、私の畏友Gunnar Gyllmoの著書『仏教に関する諸事実』からの引用である。

雨季の後、60人の最初の比丘に話をした。それはよくキリストの伝道指令に比べられるが、それは私見によれば大きな誤りである。伝道指令には(ロンドン聖書、マタイ28:18-20)「私は天においても地においても一切の権威を与えられた」から、使徒達は「行って全ての民族を弟子とせよ」とある。仏陀は権威については何も言わなかったし、入信を迫ることをすすめはしなかった。その代わり、彼は比丘達に、「多くの人の善と幸福の為に、世界への憐れみから、天と人の祝福と善と幸福の為に」行って法を説くよう訓諭した。キリストの伝道指令は全能の神への服従に動機があり、仏陀の訓諭はメッセージを受け取る人々への慈悲からくるのである。仏陀は教えるよう諭したのであって、「弟子と」するよう諭したのではない。それは他人の自己アイデンティティの侮蔑に基づく全く別の事柄である。彼は「国民」(あるいは「民族」)にではなく、人に向かった。「全て」ではなく「多くの」というのは、心理学的により現実的であり、教えられる者の意志に逆らって何かを教えることがどれほど不可能かということを知っている。

ここに、私たち真宗門徒の目指す方向が見えないだろうか。真宗の教えを説き広める目的は、教団の拡大ではなく、人々への慈悲なのである。それはまず有縁の人々からはじめることになるのは当然だが、今や世界の全人類は縁で結ばれている、ネットワーク社会である。中近東、アフリカ大陸にまで視野を広くせねばならぬのは当然だろう。

第二の問題は、言葉の壁である。具体的には、第一に儀式言語、第二に布教言語である。

儀式に使用される言語は、古代中国語の日本式発音(主に呉音:古代南方中国における発音が日本でなまったもの)であってみれば、それを目で見て理解できる人は中国や日本でも一部(人口比1%以下)のエリート、耳で聞いて理解できる人は皆無に近い。本願寺派の国際部に尋ねたところ、「海外の別院でも、読経は漢文です。意味の分かる人はいないでしょう。でもその後の説教は現地語で行いますので、問題だとは考えていません」との回答があった。しかし私は「儀式と教学は車の両輪、どちらが欠けてもだめ」と教えられた。儀式言語は現地語を主体とすべきだ。それは同時に、この日本においても、現代日本語を主体とすべきだ、ということでもある。新しい儀式の創出は一部僧侶において試みられているが、全体の課題として取り組まれねばならない。(参照記事:法要の現代語化を考える

布教に使用する言語についていうと、大谷派においては日本語と英語とポルトガル語に限定されている。世界に3000以上あるといわれる言語の中で、たったの三つ。仏教伝道協会の「仏教聖典」は、現在までに41の言語で刊行されている。沼田恵範師の発願のスケールは並外れたものだ、と今更ながらに驚かされる。聖典を翻訳する、言葉のできる開教使を養成する、諸国に別院や仏教会(寺)を設立する、そのためには時間も金も必要であって、10年、20年...100年のスケールで考えることが必要になるが、それを大谷派も本願寺派も教団全体の課題として考えたことはあるのだろうか。

私自身は、及ばずながらもエスペラントという言語による布教を志すものである。海外(発展開発途上国)のエスペランチストに「エスペラントの仏教書を贈りたい」といったら、続々と依頼が来て、その発送費の捻出に苦労している。かつて本願寺派はエスペラント訳歎異抄を発行したが、今やマイノリティの言語のことを気にしてくれる教団はどこにもないのだと思うとさびしい。

(2006年4月21日脱稿)