少年犯罪がマスコミの話題となるたびに、有識者と称する人たちは「教育力」の低下を憂えています。そして政治家たちは教育「改革」の必要性を叫び、特に教育基本法の改正が議論されています。
しかし、ほんとうに少年犯罪は増加しているのでしょうか?「未成年の殺人犯検挙人数と少年人口(10〜19歳)10万人当りの比率」という統計調査によれば、未成年の殺人犯検挙人数がもっとも多かったのは1951年で、448人(比率は10万人あたり2.55人)、それに次ぐのは1960年で、同じく448人(比率は10万人あたり2.15人)です。これに対して、2004年は62人(比率は10万人あたり0.48人)です。1971年に比率が1.0人を下回って以来、ずっと減少傾向にあることが統計から明らかです。
国際的に見ても、日本における未成年による殺人率の低さは顕著です。逆に50才代の殺人率は1.6人、60才代前半は1.41人で、これは国際的には群を抜く高さです。すなわち、日本では少年よりも中高年が危ないのです。
私自身も、数字を見て意外に思ったのですが、おそらくほとんどの方は「少年犯罪が増加しつつある」「教育が悪い」というイメージを持っておられるのではないでしょうか。こういうイメージは、マスコミによって作り上げられた虚像なのです。同じ事件を毎日、ワイドショーや週刊誌でセンセーショナルに報道されれば、件数は少なくても印象が強くなるものです。もしかすると、意図的な情報操作かも知れません。
もちろん、だからといって、少年犯罪を無視してよいというのではありませんし、数字では現われてこない「心の闇」を解明していく必要もあるでしょう。犯罪の動機や質が以前とは違ってきているかどうかは、きちんと調べてみないといけません。
「いのちの尊さを教える」教育が必要だというのはその通りです。ただし、教育の相手は少年に限りません。中高年こそがまず「いのちの尊さ」を学ぶべきでしょう。モラルの崩壊をもたらしたのは、今の中高年だからです。宗教教育が必要だとすれば、それもまず中高年から始めねばなりません。そもそも、仏壇がない家庭において、どうして宗教教育ができるでしょうか。どうして子どもに合掌や礼拝を教えられるでしょうか。「死者もいないのに仏壇を買うと死を招く」というばかげた迷信からして断ち切るべきです。
教育とは共育、育ちあうということなのです。大人が子どもを教える時には、同時に大人が学ぶことでなくてはなりません。子どもへの尊敬が必要です。相手を人間として尊敬できない時、暴力(体罰)が生まれ、暴力が暴力へと連鎖し、憎しみが生まれ、憎しみが憎しみを招き、私たちの社会は弱肉強食の畜生社会に成り果てます。
ところが、現在の教育改革論議をみていると、どこまでいっても、経済・産業・国家を強化する方向でしか教育がとらえれらていません。
玉光順正先生(真宗大谷派・前教学研究所所長)は次のように言われます。(教学研究所メッセージ)
基本法「改正」を求める議論には、そのような子どもたちを「もっと強く」「もっと正しく」と鞭打つようなキツさがつきまとっているようにも思えます。 強く勝ち抜く人、愛国心をもった正しい人を育てたいという「大人の欲望」に対しては、恐らく子どもたちは、これからもずっと怨みをもって報いるしかないでありましょう。そもそも大人自身が、社会や国家など、様々なしがらみに束縛され、抑圧されてきた怨みを抱いて、生きるべき未来を見失っているのではないでしょうか。子どもたちは、そのような大人の苦しむ姿をみて、強く・正しい大人になることを全身で拒否しているようにも思えるのです。
教育基本法は、「教育の憲法」ともいわれるとおり、教育の本質を定義し、その遵守を為政者に求めるための法です。(勘違いしている人が多いようですが、基本法とは、国家が国民に「あれをせよ、これをするな」と命じるものではなく、為政者の勝手な行動を封じ、政府が暴走しないようにさせるためのものです。例えば、「義務」教育ということの意味は、子どもは小中学校に行かなければならない、ということではなく、子どもは教育を受ける権利があるのだから政府自治体はその権利の実現を保証しなければならない、ということなのです。ですから、いじめなどの理由で学校に行けない子どもがいるとすれば、「義務」に反しているのは子どもではなく、いじめを放置している大人ということになります。)
本当にたいせつな教育とは何なのか、みなで考えてみましょう。教育「改革」は政治家や文部官僚のしごとではありません。私たちひとりひとりの課題なのですから。
(2006年6月15日脱稿)