水子供養

先日、「水子供養をお願いしたい」と、寺へ若い男女がおいでになりました。

「先祖供養」とか「水子供養」とかいうときの「供養」は、本来仏教でいうところの「供養」とは意味が違うように思われます。大辞林(第二版)によりますと、

(1)死者の霊に供え物などをして,その冥福を祈ること。追善供養。
(2)仏・法・僧の三宝を敬い,これに香・華・飲食物などを供えること。

とありますが、このうち(2)が本来の意味であり、(1)は転義ですが、今ではほとんど(1)の意味で使われていることはお分かりでしょう。

仏教では霊の存在を認めないのが原則(諸法無我)ですから、仏教寺院が(1)の意味で供養をすることはおかしいのです。特に浄土真宗ではこの意味での供養をすることはありません。だから、「浄土真宗では水子供養はしない」と言われることがありますが、これはあまり正確ではありません。たしかに、水子の冥福を祈って読経する、ということはありません。しかし、お葬式や忌日法要が「亡き人をしのびつつ仏の教えにあう」「私自身のありように目覚める」ことを意義とするのと同じように、水子についてもこのような意義をもつ法要は必要なのではないか、と思います。

そもそも、水子といえども人間であったことに違いはありません。法的には線引きがあるのかも知れませんが、仏教では、卵子が受精した瞬間をもって命の誕生ととらえます。流産は胎児の自然死ですし、人工中絶は胎児を殺すことです。後者の場合、法的な罪はなくとも、仏教的には罪悪です。

いわゆる水子供養が数十年前から流行り出した背景には、僧侶のふりをした貪欲な業者が、親の罪悪感や不安感を煽り立てたということがあります。水子の霊障などということを言い出す詐欺師の口車に多くの人が乗ってしまったのです。

さて、水子供養を依頼に来た男女のことに話をもどします。

私は、お二人に、概略上のようなことを申し上げた上で、正信偈の本を渡し、「これを読むので、眼で追いながら聞いて下さい」と申しました。お勤めが終わると、女性の方が一本のビデオを差し出して、「これ、どうしたらいいですか?」と尋ねました。
「エコー検診のときにとったお腹の赤ちゃんのビデオですか?」
「はい、病院では『要らなかったら、そちらで処分していいですよ』と言われたんですけど、本当に捨てていいのか心配なんで…」
「捨てないで、大切に保存しておくべきだと思いますよ。赤ちゃんが存在したことの証ですから。」
「でも、ずっと持っていると、なんだか引きずるようで…」
「引きずる、って、何を引きずるんですか?」
「…(無言)」
「罪の意識を引きずる、ということでしょう? 申し訳ないことをした、という罪の意識は、お経を読んだから消えるというものではありませんよ。むしろ、罪の意識はあなたたちの財産です。だから、それはビデオとともに、一生、死ぬまで持ち続けて下さい。水子供養というのは、あなたたちの気分をすっきりさせるためにするんじゃありません。あなたたちの罪を帳消しにすることもできません。あったことをなかったことにするんじゃないんです。そうではなくて、あなたたちが、命の大切さに気づくかどうか、が問題なんです。今のお経で、そのことにほんの少しでもふれてもらえたら、それが本当の水子供養です。死んだ赤ちゃんも、あなたたちが罪の意識を背負い続けながら命の尊厳ということに目覚めた時、その時にはじめて、幸せになるというか、存在した意義があった、ということになるんじゃないですか。」

女性の目に、少し涙が滲んでいました。どういう涙であったのか、当事者でない私には本当のところは理解できませんが、その涙は御仏からの賜り物であったのだと思います。

(2006年8月22日脱稿)