釈尊が悟りをひらかれ、法輪を転じ、入滅されたインド。いつかはインドへ... それは仏教徒としての私の長年の願いであった。
いわゆる「仏跡参拝ツアー」に申し込むのも悪くはないだろう。しかし、見知らぬ日本人と団体行動するのはいやだ。私は人見知りする性質なのだ。一人で気ままに行動したい。
そして51歳の誕生日を迎える直前、何かにうながされるようにして日本航空のチケット(中部-成田-デリー)を発券してしまった。その数日後、何度もインドを旅し京都の大学で仏教を教えておられるW先生にお会いした時、「今度インドに行くことにしました」と申し上げると、「私は一人でインドに行く勇気はないですね」と言われてしまった。考えてみれば、もっと若ければともかく、この年になってインドを個人で旅するのは無茶かも知れない。しかし今さらキャンセルするのも業腹である。何とかなるだろう。
11月下旬、インドのビザを申請する書類を提出。申請用紙の職業欄に"bonze"(僧侶)、渡航目的に"sightseeing & pilgrimage"(観光と巡礼)と書いて送ったら、数日後、「現地で宗教活動をしない旨の誓約書にサインしろ」ときた。インドはいいかげんな国かと思ったら、妙なところできびしい。「宗教活動の定義は何か?」などと領事館とやりあっていたらビザを拒否されるかも知れないので、おとなしくサインした。こんなことなら職業を正直に書かなければよかった。
一人で気ままに、とはいっても、まったく気の向くまま、足の向くまま、というわけにもいかないだろう。一ヶ月も休みがとれればともかく、今回は12月14日から22日まで9日間の行程である。自分なりの予定は立てておかないと帰ってこれなくなるかも知れない。以下がおおまかな行程である。
あくまでも聖地巡礼が主目的だが、私だってせっかく来たからにはタージマハール(アグラにある)くらいは見たい。そんなわけで以上の行程になったが、この通りに行動できるかどうか、正直なところ、まったく自信はなかった。
インドはどういう国か、と問われれば、「汚い、うるさい、ごちゃごちゃ」というのが第一印象である。これはハッキリしている。しかし、国のシステム、文化、宗教、カーストなどが複雑にからみあい、わずかな滞在経験でもって「インドとは〜」と語ることは不可能である。ただ、すくなくとも表層においては日本の対局にある。「きれい、静か、整然とした」日本から来る旅行者にとっては、あまりにもギャップがあり過ぎ、そのゆえに「二度と来たくない」という人、インドの底知れぬ魔力にはまって何度も来てしまう人の二通りに分かれるようだ。
それから、ガイドブックやインターネット掲示板などでだれもが指摘しているとおり、旅行者をカモにするインド人が多いのはたしかである。「日本語で話しかけてくるインド人は絶対に相手にするな、やつらはすべて金めあてだから」「タクシーやリキシャーは料金交渉をしっかりと、毅然とした態度で誘いをはねつけろ」云々、というのは事実だった。ぼったくりにあわないように気をつけてはいても、それを避けるのはほぼ不可能である。今回、私に関して言えば、少額のぼったくりはともかくとしても、クレジットカードをスキミング(カード情報が盗まれること)されるという被害にあった。さいわいカード会社のセキュリティがしっかりしていたため、スキミングが即座に発覚して使用停止にしたし、金銭的な被害は生じなかったが、ショックではあった。中国でもタイでもクレジットカードの使用に問題はなかったのに。インドではたとえ店構えがちゃんとしていてもクレジットカードを使ってはならない、これは鉄則だと学んだ。
しかし、現地で話しかけてくるインド人をすべて無視することは、できなくはないだろうが、あまり現実的ではない。だまされることも覚悟の上で少々つきあってみる、旅とはそういうものだと思う。だまされるのは絶対イヤ、というならば日本から出ないのがいちばんだろう。ただ、睡眠薬強盗など悪質な犯罪もあるので、気を緩めてはならないのはもちろんである。
インドでだれもが悩まされるであろう物乞いの問題。インドは中国をもはるかに上回る格差社会である。先日も、総工費2,000億円(20億ドル)という、世界一の豪邸を建てたインドの金持ちのことが新聞に出ていた。駅や路上で、年端のいかない子どもたちが差し出すか細い手を無視するのは、気がめいる。「少々の金をめぐんでやったところで、貧富の解決にはならない」というのは正論ではあるが、そういうことをいうならば、すべての慈善事業には意味がないことになる。施しはインドでは当然と考えられており、ふつうのインド人が物乞いに施しをする光景をよく目にした。沢木耕太郎が『深夜特急』で書いているように、施しをしないのは単にケチだと認めてしまえばよいのだ。施しをしたくなければしないでよいし、したければすればよい。私もそのように思った。100ルピーを1ルピー硬貨に両替し、片手でそれを握りながら、もう片手で寄ってくる子どもたちに1ルピーずつを渡していく。あっというまに人だかりだ。硬貨が尽きたら、両手を挙げて「もうない」というポーズを作りながら歩き出すと、それ以上は寄ってこなくなる。これで勘弁して欲しい。私は持ち金のうちのほんの僅かしか施ししないケチな人間なのだ。ちなみに1ルピーは2円に相当する。
治安について。デリーではいたるところに機関銃(ライフルではない)を構えた警察官が立っており、博物館や観光施設では金属探知器をくぐる、というものものしさだった。宗教絡みのテロが多いせいだろう。
ブッダガヤに行くためには、近くのガヤという町まで列車で行く。時刻表では早朝4時着とあったが、どうせインドのことだから2、3時間は遅れるだろう。それなら明るくなっているし、乗り合いリキシャーを利用すれば安くブッダガヤへ行けるだろう、そう考えていた。ところが列車は定刻通り着いてしまった(ちなみにインドでは車内放送はない。夜行列車でどうして到着がわかるかというと、車掌が到着15分前に起しに来てくれるのだ)。半分頭が眠った状態でプラットホームに下り出口にさしかかると、さっそくリキシャーの誘いが。「どこへ行く?」「ブッダガヤへ」と思わず答えてしまった。駅構内で明るくなるまで待っていればよかったのだが、頭がほとんどはたらいていない状態で、200ルピーというのを20ルピーだけまけさせ、暗い夜道を走り出す。ここで気がついた。ブッダガヤに着いたところでまだ真っ暗なはずだ。どこで何をすればいいというのか。
あとで気づいたことではあるが、ブッダガヤの大塔には、朝暗いうちから巡礼の人々が集まり出す。だから大塔まで行ってもらったらよかったのだが、その時はそうとはしらず、どこか宿を探さねばと思い、ガイドブックにのっているリストからいちばん安い宿の名前を言って連れていってもらった。宿に着くと、運転手は中に入って呼び鈴を鳴らす。オーナーが出てくる。「しまった、こんなに朝早く起してしまって悪かった...」オーナーはとくに迷惑がるでもなく、「1泊1000ルピー、部屋は今から使ってもらっていいけど半分の500ルピー。トイレとシャワーは共同。ほんとうはもっと安いんだけど、今チベット仏教の偉いお坊さんが来ていて、部屋はどこも満杯だよ。今はハイシーズンなので、ガイドブックにのっている料金の5倍もらうことになっている」という。彼が言っていることが本当かどうか、確かめようにも、夜道をひとりで別の宿に向うこともできない。しかたないので泊めてもらうことに。
しばらく仮眠を取り、明るくなって外へ出てみる。宿の名前が私が運転手に言ったのと違うことに気づいた。「やられた」と思った。これはリキシャーの運転手がコミッションを稼ぐために、自分の提携している宿にむりやり旅行者を連れていくという常套手段だ。宿のオーナーに申し出た。「実は私が泊まろうと思ったのは別のところなんだ。勘違いだから、今チェックアウトしたい。」するとオーナーはそれまでの英語を止め流ちょうな日本語で話し出した。「どこも満杯だよ。本当にハイシーズンなんだ。ここは日本人がよく来るよ。ノートに彼らが残してくれたメッセージもある。私はうそは大嫌いだし、リキシャにコミッションを渡すのもいやだからリキシャはここへは来ない。間違って来てしまったみたいだね。なんなら日本人のお客さんのメッセージ読んでみる?」
しばらく押し問答をしているうちに、めんどうくさくなってしまった。まあ、いいか。悪い人ではなさそうな気がする。ノートには、オーナーは親切な人だという意見が多かった。一人だけ「なかなかの食わせ者だ」と書いていた人がいた。このオーナーは昔、名古屋で旅行会社で働いていて、「ここがヘンだよ、日本人」というテレビ番組に出演したことがあるのが自慢らしい。日本語はたしかに流ちょうだが、読み書きはできない。英語の読み書きもできないように見受けられた。「日本でもう一度働きたい、インドの貧しい子どもたちを救うための活動をしたい」という彼に対し、私は疑念の気持ちを完全には拭い去ることはできなかった。たしかに、色々と親切にしてもらったのは事実だ。それに、彼のバイクに乗せてもらって近郊をいろいろと案内してもらったし、ラージギルに行くのに車を手配してもらったりもした。食事や酒を二晩つきあった、割り勘で。その時は、「善い人だな」と思ったものだ。
「やっぱり食わせ者だ」と思ったのはチェックアウトの寸前だった。それは、私がブッダガヤのおみやげとして「菩提樹の葉を乾燥させたものと、鉢植えにするための種子を買いたい」と言うと、オーナーは「ブッダガヤは偽物が多いからね。自分が調達してあげるよ」と言って、「葉が約100枚と種子を一袋にしたもの、あわせて1万円」だという。その時はちょっと高いように思ったけれども、彼を信用することにして「じゃあ頼むよ」となった。しかし翌日、念のため、路上で菩提樹の葉を売っていた男に値段を聞くと、1万円では相場の2、3倍だと分かった。そういえば、「あそこの宿のオーナーには気を付けた方がいいよ、合い鍵をつかって荷物の中身を盗むことがあるからね」と、複数のインド人が言っていた。代金をまだ払っていなかったのが幸いだった。私は急いで荷造を済ませ、部屋を出ると彼が出て来た。「どうしたの?」「菩提樹はいらない、今すぐチェックアウトする」と言うと、オーナーはけんめいにひきとめようとする。「まあ座ってよ。ブッダガヤでは俺のことを悪くいう奴が多いんだ。ひがんでるんだ。先生は(オーナーは私のことを「先生」と呼んでいた)あいつらにだまされてるよ。菩提樹の葉はいくらでもいい、先生の良いと思う値段で良いよ。今さらケンカなんてしたくない。」私は彼を振り切るようにして宿を後にした。
結局のところ、彼がどういう人であったのか、私には分からない。本当は善い人で、たまたま誤解が生じただけなのかも知れない。その後、ガヤの駅でたまたま出合った日本人のバックパッカーに聞いてみると、どこでも宿泊費5倍は本当らしい。というか、ブッダガヤの宿の組合かなんかが協定を結んでいるのだろうけれども。インド人は単純ではないということだろう。親切ではあるけれども、コミッションは欲しいのだろうし、多少のピンハネは悪いとは思っていないのか。日本人に親切にするのは、自分が日本に行って稼ぐための初期投資と思っているのだろか。未だに彼のことは謎である。善人・悪人という分け方が通用しないともいえる。
さて、ここからば聖地ブッダガヤについての印象である。「ブッダガヤはお寺のテーマパークだ」と言った人がいる。なるほど、と思った。この町は、[大菩提寺](Maha Bodhi Temple)を中心として、周囲に各国寺院があちこちに建っている。日本寺、チベット寺、スリランカ寺、ベトナム寺、ミャンマー寺、タイ寺、ブータン寺、中国寺、バングラデシュ寺...各国寺院の建築様式の違いや、堂内の荘厳のされ方など、それぞれに特徴があっておもしろい。宿坊をそなえた僧院もあり、ふつうの旅行者も泊めてくれるそうだ。私は10カ寺ほどを参拝したけれども、参拝し残した寺院もある。
そしてやはり、大菩提寺である。ここに高さ52メートルのストゥーパ(仏塔)が建っており、これがブッダガヤのランドマークでもある。通称「ブッダガヤの大塔」という。元々は紀元前3世紀にアショーカ王が建立した寺院であり、7世紀頃には塔の原形が出来上がり、その後改修をくりかえして現在にいたる、とのことである。この塔の西側に金剛宝座がある。すなわち、釈尊が成道された、まさしくその場所であり、菩提樹がそびえている。もっとも、この菩提樹は成道当時のものではない。アショーカ王の時代に、ブッダガヤの菩提樹の実をスリランカに移植し、そこからブッダガヤに復元したものである。だから、現在の菩提樹は、元の菩提樹の孫樹となる。
金剛宝座は、かつてオウム真理教の教祖がそこに座り込んでしまったことがある。その後、金剛宝座は、周囲を石造欄楯で囲まれてしまい、狭いすき間から窺うしかない。あんな事件さえなければ、私たちはもっと自由に拝見できたものを。
前述の通り、この時期にちょうどカギュ派の法王猊下が滞在されており、ブッダガヤの町は人で溢れていた。圧倒的に目立ったのはチベット仏教の僧侶で、1,000人以上はいたように思う。大菩提寺ストゥーパをずらりと取り囲む僧侶の4分の3を占めていただろう。残り4分の1はオレンジ色の袈裟で、テーラヴァーダの僧侶である。在家信者の祈りのしかたは様々である。ストゥーパに向い瞑想する人々、読経する人々、五体投地を繰り返す人々、僧侶の説法に聞き入る人々、右繞する人々...そして右繞のしかたも様々である。経行歩行(ウォーキングメディテーション)もあれば、あるいはマニ輪を回しながら、あるいは真言を唱えながら、あるいは五体投地しながら等々。
この人々の中に混じりながら、「ああ、これこそが全世界仏教の総本山なんだ」という思いが沸々とわき上がってきた。ここに集う人々の国・民族・言語・宗派はさまざまである。そうして、それぞれの作法で祈り、瞑想し、法要を行なっている。大菩提寺は世界遺産であるが、単なる遺跡ではない。生きた宗教施設である。だから入場料はとらない(これについては管理委員会内部において、仏教徒側が入場無料を強く主張した結果と聞く)。それはブッダガヤのすべての寺院についても同じである。それが聖地であるのは、人々がこのように集まりブッダと出会っているからに他ならない。もちろん、聖地だから人は集まる。しかし逆にいえば、仏教徒が集うからこその聖地である。このように多彩な祈りの光景を目にすることではじめて、私は"ecumenical buddhism"(世界仏教)を実感した。
大菩提寺は夜ともなればライトアップやイルミネーションが輝き、たいへん美しい。このことを冒涜と思う人もいるかもしれないが、私は単純にその美しさに感動した。
私の宿にはフランス人夫妻が同宿しており、彼らは毎年この時期には2週間ずつブッダガヤにやってくるという。そして毎日2回、午前と午後、きまって大菩提寺にでかけては瞑想しているのだと。こういう話しを聞くと、信仰熱心なのかとも思うが、こういうライフスタイルなのだ。ヨーロッパの人にとっては特別のことではないのだろう。わずか8日間で数ヶ所をまわろうという私のほうが、彼らからすれば「もっと落ち着きなさいよ」となるのかもしれない。
チベット仏教は中国で弾圧されているから、チベット僧のかなりの部分が欧米に亡命する。そうしてその地で仏教を広める。すると、彼の周りにおのずと寺あるいは信者グループが出来上がる。ブッダガヤにおいて、そのようなグループをいくつか見かけた。実際、私がガヤからヴァラナシに向う列車の中では、オーストリアに滞在するゲルク派僧侶が10名ほどのオーストリア人を引き連れていた。ダライ・ラマだけでなく、多くのチベット僧が現地で布教にあたっている功績は大きい。
ラージギル(王舎城)へは、ブッダガヤから車をチャーターした。竹林精舎、ビンビサーラ王牢獄跡、戦車の轍跡(ビンビサーラが説法を聞くために釈尊の元へ日参したことが、その深い轍から分かる)、といろいろ連れて行ってもらったが、肝心な霊鷲山(Gridhrakuta)へは行くことができなかった。本当は、日本山妙法寺が建つ多宝山からアクセスするらしいのだが、ドライバーは妙法寺までいっしょについてきながら、そこから帰ろうとする。私は(別のルートで霊鷲山に行くのか)と思って素直にそれに従った。しかしドライバーは、実は多宝山と霊鷲山を区別していなかったのだ。インド人の観光客で多宝山へ登る人は多い。リフトが整備されているのだ。しかしみな、日本山妙法寺を見終わると、そのままリフトで麓まで降りていっていた。どうやら、霊鷲山は仏教徒には聖地であっても、インド人にとっては隣の白亜の建物をもつ日本山妙法寺のほうが価値があるらしい。ドライバーにほとんど英語が通じなかったのも問題であった。(しかたない、あとでブッダガヤへ戻る時にもう一度登ることにしよう)と、とりあえずラージギルをあとにしてナーランダへ向った。
ナーランダは八大聖地のうちには数えられていない。しかしここは世界最古の大学として名高い。最盛期には2,000人の教授と10,000人以上の学生を抱え、仏教のみならず、論理学・医学・工学・美術などのあらゆる分野にわたって毎日100以上の講義が催されていた、という。玄奘三蔵もここに5年間留学していた。しかし12世紀にイスラム軍の焼き打ちに遭い、仏像や建物は破壊され、貴重な書籍・経典類は6ケ月以上延焼し続けたという。焚書坑儒にも匹敵する蛮行だが、それほどの典籍を蔵していたことに驚かされる。ゆっくり見学したいところだが、なにしろ日が暮れる前に霊鷲山に登らねばならぬ。しかたなく駆け足で見学し終わり、霊鷲山へ。
ところが、朝にはそれほどでもなかったリフト乗り場は大混雑である。聞けば、待ち時間40分とのこと。これでは日が暮れてしまう。私は自分の判断ミスを悔いた。ラージギルまでやってきながら霊鷲山に登らないとは... まあ、こういうこともある。すべてが思い通りにならないのが旅だ。またやってくる機会を作ろう。ナーランダもゆっくりまた見学しよう。ナーランダ博物館も休館だったし、いずれにしてももう一度来るべきだ、と自分を納得させることにした。
ナイランジャラー川(尼蓮禅河)をはさんで、ブッダガヤの東にセーナー村が位置する。本当の寒村である。釈尊が苦行に見きりをつけ、スジャータから乳粥を施された、という場所である。ここから、釈尊が苦行をされた前正覚山が見える。寒村ではあるが、スジャータを記念する塔や寺院が点在する。
今は乾期のため、ナイランジャラー川に水はない。砂地のため、歩いて対岸に渡れるくらいだ。ここで思った。釈尊は苦行を捨てて尼蓮禅河で沐浴したと伝えられているが、乾期だったら沐浴できないはずだ。とすれば、北伝において釈尊成道が12月8日とあるのは、どうなんだろうか。一方、雨期であれば、苦行でやせ細り衰えた体力で尼蓮禅河を渡るのは不可能に思える。とすれば、南伝のヴェサーク月(現代の5月)説も信じがたい。もちろん2500年前のこととて、現在とは気候条件も異なり、河の位置もそのままではないだろう。ただ、ふと気になった。
実は、ブッダガヤからセーナー村に至る道中、幸福の科学の施設がある。「精舎」(ヴィハーラ)と自らは名付けているようだが、布教拠点にするつもりだろうか。何を信じようと自由だから、文句をつける筋合いもないわけだが、幸福の科学の信者諸氏がブッダガヤを訪れるなら、虚心に仏法を学んでいただきたい、と願うばかりである。ついでにいうと、ブッダガヤだからといっても、住民はやはりヒンズー教徒だったり、イスラム教徒だったりする。私が滞在していた17日の晩などは、イスラム教のお祭りがあるとかで、よく分からない騒ぎ(異教徒には騒音にしか聞こえないのだ)があった。仏教の最大の聖地でこういう騒ぎはやめてもらいたいと正直思ったが、それだってイスラムには関係ない話、こちら側の勝手な思いに過ぎないといえばそれまでだが...
ブッダガヤからガヤに戻り、列車でヴァラナシへ。ヴァラナシはバナーリスともいい、日本ではベナレスとして知られた町である。ヒンズー教の聖地であり、ここのガンジス河で沐浴するのがヒンズー教徒にとっての生涯の夢だという。そのガンジス河(ガンガー、恒河沙)の沐浴風景を見たり、あるいは自ら沐浴するために外国人観光客も多く訪れる。私がここへやって来た目的は、しかしながら沐浴ではない。サルナートへ行くための起点なのだ。
若干の遅れはあったが、昨日電話で予約しておいた宿へは、問題なく到着できた。1泊300ルピー(600円)で、トイレ・シャワー・机も備わっている。部屋の張り紙をみると、「アルコール・ドラッグ禁止」「トイレットペーパー使用不可」と書いてある。ドラッグ禁止はいいけれども、ビールは飲みたい。宿近くの旅行代理店のオーナー(土産店も経営する)から、声をかけられたのを幸いに、「どこかでビールを飲めるところはないか?」と尋ねると、「この一角は聖地(religious sacred area)だから、ビールが欲しかったら、1キロメートル先の店まで買いに行かなくてはダメだ。なんなら買ってきてあげようか」と言う。手数料込みで150ルピーなら高くはない。1本買ってきてもらうことに。オーナーはどこかの少年に何事か命じた様子。「この子が買ってくるから、それまでちょっと政府経営の店に案内するよ。見るだけでいいから」・・・出た!「見るだけでいいから」まあ、しかし私は絶対に何も買わないと心に決めていたから、ついていったけれども結局何も買わなかった。ビールは冷たくはなかったけれども、宿の部屋でいただくとしよう。「宿のオーナーには見つからないようにね。ビンを服の中に隠して」大瓶なので前が不格好に膨らんだ。が、ともかくもビールが飲めた。もう一つの問題はトイレットペーパーだ。私が日本から持参したのは普通のロールで、もちろん水溶性だから、使用するのに不都合はないはずだ。たぶんティッシュペーパーとかを使った人間がいて、トイレが詰まってしまったとかのトラブルがあったのかも知れない。トイレットペーパーを使ってみた。流れない。しかし徐々にペーパーは溶け、少しずつではあるけれども、流れている様子。たぶん大丈夫だろう。
ヴァラナシで出会った、Raviと名のる一人の青年のこと。帰国後ネット検索してみると、日本人バックパッカーには有名らしい。初めに声をかけてきたのは彼の弟で、それほど上手な日本語ではなかったが、そこにRaviが割り込んできた。背が低いので少年にしか見えない。「火葬場とお祈りを案内する」と言ってきた。(ああ、高額な案内料をせしめるつもりだな)と思ったので、「案内料はいくら?」と機先を制したつもりが、「オレはガイドじゃない。日本人からお金はイッサイもらわない」と来た。そして、日本人とのつきあいがいかに多いかを得々と弁じ出した。テレビドラマ化された「深夜特急」にも出たとか言う。
少し警戒しながらも、彼に付いていくことにした。うわさに聞く火葬の現場。10体くらいが焼かれている最中だった。焼けていく頭や腕が、炎の中に見える。人が焼ける時には甘い匂いがする、と聞いていたが、たしかにそう思えなくもない。沢木耕太郎が書いていたように、近くの野良牛がその煙を浴びながら恍惚とした表情をしていたように思えた。日本では窯の中で火葬する。インドでは野天で火葬する。Raviが横で「人生の勉強」と言った。なるほど...
ヒンズー教のお祈り(プジャ)を案内してもらった後、Raviに晩ご飯をおごってあげようと思った。Raviは「ご飯は一緒に食べる。でもおごってもらうのはいやだ」という。どういうことだろうか。Raviは本当に親切で言っているのか、別の下心があるのだろうか。いったん宿にもどって荷物を整理するという口実をつくってその場を別れる。宿の主人に「Raviという青年を知ってる?」と尋ねる。「知ってるよ」「食事をいっしょにすることにしたんだけど、どういう素性の人か分かる?」「特に悪質ということはないと思うよ。でも買物をさせられるかもしれないから気をつけて」。まあいいか。こういうことに関して、私は度胸があるというよりは、慎重さに欠けるところがある。Raviが「ビール飲みたい?」と尋ねてくる。「できれば」「それなら、美味しいビールが飲める店へ行こう」と言って連れていかれたのが、薄暗い路地裏で、ベンチがいくつか置いてあるけれどもテーブルもないような場所だった。カウンターとおぼしきところでRaviが注文をしている。(まさか睡眠薬強盗?)と、少々恐くなった。「こんなところが店なの?」「だいじょうぶだよ。美味しいビールはここにしか置いてないから」少々のつまみと冷たいKingfischerビールをいただき、さて食事はというと、Raviは道中のカレー屋でカレーとチャパティをテイクアウトして、「ガンガーの舟の上で食べよう」という。カレー自体は特別に美味しいというわけではなかったが、マトンの骨髄は美味しく、それよりもガンガーに浮かべた舟の上で、初めて出合ったインドの青年と食事をする、というのは不思議な縁であった。
帰国当日の朝、私はガンガーの日の出を見るために早起きした。ヒンズー教徒ではない私でも、この光景は心に残った。ただ、舟を出してもらうのに、「1時間100ルピー」と約束したつもりが、遠回りされて「2時間だから200ルピー」と請求されたのが悔しかった。何時間で帰るかを確認しなかった私が悪かったのだが、最後の最後で騙され、気分が悪い。しかし、その後、ヴァラナシ空港へリキシャーで向い、到着してから運転手が「空港に乗り入れたのでextra chargeが50ルピー必要だ」と言うのを、「そんなこと最初に言わないのが悪い」と言い捨てて、さっさと空港ビルの中に入って、少しすっきりした。
サルナート(鹿野苑)へは、ヴァラナシからリキシャーで行った。この町にも、ブッダガヤほどではないが、いくつかの仏教寺院がある。その中でも特筆すべきは、初転法輪寺(Mulgandha Kuti Vihar)である。スリランカのダルマパーラ師が発願建立した寺院である。その建築は古代インド様式に則り、均整がとれたたいへん美しい姿である。私がインドで拝観したどの寺院にもまして美しかった。アナーガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)、彼こそは仏教を国際化せしめたパイオニアであり、インド仏跡復興に力を注ぎ、何度も日本を訪れ、Maha Bodhi Society 創立者となった高僧、雄弁で鳴らした美青年だったという。「アナーガーリカ」という法名をもつイギリスの仏教徒を私は知っているが、それは多分この僧侶にちなむのであろう。
初転法輪寺が有名なのは、野生司香雪画伯の釈尊一代を描いた壁画の故であろうか。この壁画の制作を依頼したのはダルマパーラその人であり、インド国内における「なぜ日本人に描かせるのか」という強い反対意見を押し切っての依頼だったという。ダルマパーラも画伯も、この壁画制作にかけた並々ならぬ熱意には胸がいっぱいになる(詳しくは佐藤哲郎『大アジア思想活劇』参照)。私はここで小一時間半跏趺坐による瞑想を行なったが、インド滞在中いちばん落ち着いた時を過ごせたように思う。ちなみに、私だって昔は結跏趺坐できたが、情けないことに最近は足が固くなって半跏趺坐でないと坐れない。
さて、サルナートの仏塔はダーメク・ストゥーパと呼ばれ、その様式は他に例をみない。ブッダガヤ大塔と違うのは、入場料が必要だということである。すなわち、ここは政府の管理下にあり、遺跡として整備されているけれども、寺院=宗教施設として機能していない、ということである。とはいえ、数は少ないながらも各国の参拝団が訪れては右繞し、読経していく。おそらくは私と同様、個人で訪れたのだろうか、中国系とおぼしき女性がしきりに三礼形式での礼拝をしていたし、ヨーロッパ系のカップルが線香を焚いていた。こうした光景をみて、やはり聖地だと実感させられる。
釈尊の地インドへ、という憧憬を、日本の仏教徒は古来から抱いていた。真如法親王、東大寺ちょう然、明恵上人、栄西禅師、道元禅師、等々。外地で客死したという真如法親王の話を聞くにつけ、飛行機でひとっ飛びという時代に生まれ、なんとありがたいことかと思う。私自身が釈尊への熱い憧憬をどれだけ抱いていたのか、内心忸怩たる思いがあるものの、やはり行って良かった、というひと言に尽きる。ブッダガヤ、ラージギル、ナーランダはぜひ再訪したい。シュラヴァスティ、パータリプトラ、ヴァイシャーリー、クシナガラ、カピラヴァットゥ、アジャンタやエローラの石窟寺院、それにネパールのルンビニ、行かねばならぬ聖地はまだ多い。
(B.E.2554年/A.D.2011年1月7日脱稿)