業報輪廻

11月15日から20日まで、ブータン国王夫妻が新婚旅行を兼ねて訪日され、その時の様子が新聞やテレビでも連日詳細に報じられたことから、多くの日本人がブータンに対して興味をいだくようになりました。私自身も、国王夫妻の誠実で優しい人柄、仲むつまじい様子に対して敬愛の念を感じざるを得ませんでした。

ブータンがGNP(国民総生産量)の代わりに国民総幸福量(GNH)を国の根本理念としていることも、多くの日本人が知ったことです。たしかに、ブータンでは国民の9割以上が「自分は幸福である」と感じていることは事実です。そしてこのことには、ブータンの事実上の国教が仏教であることと無関係ではありません。2004年に、ブータンの前王妃が来日した時の講演では、次のように述べられています。「ブータンが心がけているのは、仏教に深く根ざしたブータン文化に立脚した社会福祉、近代化の方向を見いだすことです。(中略)国民総幸福は仏教的人生観に裏打ちされるもので、私たちが新しい社会改革・開発を考える上で指針となるものです。」

ひるがえって日本では、経済大国を標榜しながら年間自殺者が3万人を超えている、と聞けば、「やはり大切なのはお金ではなくて心の豊かさだ」と主張したくなります。しかしながら、ブータンが理想郷であるとは単純には言えないように思われます。ブータンが伝統文化を守っているのは半鎖国政策によるものですが、情報のグローバル化の進展はブータンを例外とはしません。インターネット、携帯端末、ケーブルテレビの普及はブータン国民の物質的欲望を刺激し続けています。

私が気になったことが一つあります。最近のネットニュースですが、「障害者のパン屋さん 日本に学び、ブータンで人気店に」と題する記事が目に留まりました。ジグメ・ウォンモさんというブータン人女性がJICA(国際協力機構)のプログラムで来日し、身体あるいは知的障害者がパンを製造販売して自立していることを知り、帰国後に障害者とともに日本風のパン屋を始めた、というものです。ブータンでは障害者たちは就学も就職もできない理由を、ウォンモさんは、次のように説明しています。「仏教国ブータンでは、障害者は前世で残酷な行為をしたため、現世で障害を持って生まれたと信じる人が多いのです。」

このような障害者差別はブータンに固有の事情ではありません。日本でもつい最近まで言われていたことです。その根底には「業報輪廻」の思想があります。すなわち、「この世でなした行いの結果は来世に報いを受ける。良いことをすれば楽が、悪いことをすれば苦が結果として生じる」ということです。残念ながらこのような考え方が、仏教思想として語られ伝えられてきたことは否定できません。しかし、これが本当に仏教といえるのか、仏教の異端思想ではないのか、よくよく研究が必要なことだと思います。

業ということを考えますと、仏教の基本は「自業自得」でしょう。これは、自分の行なった行為の結果は自分が責任をもつ、ということであって、善悪や苦楽とは別次元のはなしです。まして、他者の境遇をあれこれ言うことではありません。仏教には倫理的側面もありますが、倫理そのものではありません。仏教は善悪・苦楽を超克する道を教えています。

「輪廻の流れを断ち切った修行僧には執着が存在しない。為すべき善と為すべからざる悪とを捨て去っていて、彼には煩悶が存在しない。」(スッタ・ニパータ715偈)
「生れによって卑しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって卑しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」(スッタ・ニパータ136偈)

釈尊が本当に実体的な輪廻転生を説いたのか、仏教者の中でも見解が分かれるところです(私自身は輪廻転生を否定します)。しかしいずれであっても、「すべての生きとし生けるものが幸せでありますように」と願うならば、仏教を説きながら障害者などの弱い立場の人々を傷つける言動は許されないと思います。

(B.E.2554年/A.D.2011年12月10日脱稿)