中日新聞(東京新聞)に連載中の、五木寛之の連載小説『しんらん 親鸞』を読んでいますが、その第328回(AD.2014.6.1)に次のようなくだりがありました。
また親鸞は、念仏する人びとは阿弥陀仏ただ一筋に生きよ、と教えた。古い迷信を批判もした。しかし、それが神祇不拝というかたくなな姿勢となることも否定している。世にある神仏を一切みとめないということではない。
これはちょっとびっくりです。浄土真宗の宗風は神祇不拝である、とされてきたと私は理解してきましたので。『教行信証』では次のように述べられています。
『涅槃経』(如来性品)に言わく、仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ、と。略出
『般舟三昧経』に言わく、優婆夷、この三昧を聞きて学ばんと欲わば、乃至 自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事うることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ、と。已上
また言わく、優婆夷、三昧を学ばんと欲わば、乃至 天を拝し神を祠祀することを得ざれ、と。
五木氏は、神祇不拝を「かたくなな姿勢」といっていますが、これはちょっと違うんじゃないかと思います。親鸞聖人が経文を引用しておっしゃっているのは。自分が何に帰依するか、どこによりどころを求めるか、それを自覚的に明確にせよ、ということです。仏教に帰依していながら、他の宗教に帰依することはおかしい、そんな曖昧な信心はありえない、そういうことです。ただただ、自分が歩みべき道を明確に意識せよということ。これは何も他の宗教を否定しているわけではありません。私たちは日本国憲法第20条に規定されているように、信教の自由を国に保証させています。なにもすべての人が真宗門徒になるべきだ、などということではありません。現に私の友人には熱心なキリスト教の信徒もいますが、別に信教の違いで言い争いをしたことはありません。
同じ仏教でも宗旨の違いということはあります。これはよく喩えとしていわれるのですが、山の頂上(覚り)に至るルートは必ずしも一つではない。しかし一旦自分が進むべきルートを選んだならば、ひたすらそのルートを歩むべきである。あちらのルートもこちらのルートも同時に歩むことはできないし、そんなことしていたら、迷いが増すばかりだ、ということです。他のルートを歩む人を否定するのではありません。
なお、親鸞聖人が和讃で天神地祇について、念仏の行者の外護者と位置づけているのは、「護法善神」説といわれるもので、インドの神々も日本の神々も、念仏の行者をガードする役を果たすのだ、という考え方です。ですから、八百万の神々といえども仏と対等の存在とはみていない、これは革命的な考え方です。つまり、旧来の神々を否定せずにむしろ仏教の中にとりこんでしまったわけです。これは本地垂迹説とはまったく対照的です。本地垂迹切だと神仏習合と矛盾しないというか、それを理論的に補強するわけですが、護法善神説は神仏習合を否定します。というよりも、神々を畏れる必要などないのだ、という、思い切った考え方です。つまり畏敬の念は不必要、むしろ有害だというのが仏教的神祇観といえるでしょう。
(B.E.2557年/A.D.2014年6月1日脱稿)