仏法としての非戦平和

真宗大谷派名古屋教区教化センターが発行する「センタージャーナル」という機関誌がある。その第90号(2014.9.25)に、私としては看過しえない文章が掲載されている。それは本山の役職者である竹橋太氏の講義録である。その問題の文章を引用する。

ある一面からは正しい答えがあったとしても、すべてにおいて完全に正しい答えというものは存在しないと思います。たとえば、「戦争は悪いものだ」という意見は正しいものでしょう。しかし...

ここまでを読み、文中の「しかし」という逆接接続詞から竹橋氏の言わんとしている意図を推論してみるに、「『戦争は悪い』という考えは、一般的には正しいのかもしれないが、完全に正しいというわけではない、すなわち『戦争は悪い』という考えは誤りであることもあり得る、正しい戦争も有り得る」ということだろう。では、竹橋氏は具体的に、どのような場合に正しい戦争が有り得るととしているのか、と思って続きを読んでみる。

...しかし、それを言うわれわれの態度によって、人間関係が分断されたり、それを絶対の正義だということによって、さらに争いを起こすということも有り得るわけです。

え?と思う。竹橋氏の主張は「すべてにおいて完全に正しい答えというものは存在しない」ということだったはずだ(この主張の正否については、とりあえず保留しておく)。その例証として「たとえば戦争」と続くわけだから、戦争が正しい場合もあることを例示するのがふつうであろう。しかしここでは、戦争に反対する主体の態度に問題をすりかえてしまっている。ふつうにものを考える人にとっては、命題の正しさと主体の態度とは別の事柄に属すので、まったく混乱するのではないだろうか。こういう論理が許されるなら、「仏法は完全に正しいわけではない。なぜならば仏教徒の中には信仰を押し付けようとする輩がいるからだ」というような奇妙な物言いが許されてしまうことになるだろう。

これは単純に論理的な破綻として片付けるわけにはいかない。今ひとつ重要な問題がある。それは、竹橋氏の依って立つ基本的な発想として、真俗二諦という場合の真諦を矮小化しているように思われることである。結論から言うと、戦争と平和の問題を世俗の事柄として相対化してしまっているのである。

真俗二諦について少し説明しておきたい。「諦」というのは仏教用語で、本来は真理を意味し、真諦は「言葉では表現できない真理」、俗諦は「言葉では表現できないはずの真理を、人々に理解させるためにブッダがあえて言葉で表現した真理」のことで、前者を勝義諦とか第一義諦、後者を世俗諦と訳す場合もある。しかしながら時間の経過および宗派の多様化により、意味が少しずつ変わっていき、浄土真宗では真諦とは仏法、俗諦とは世俗の法律とか道徳、というような意味で用いられる。古来、浄土真宗では真諦と俗諦の関係をどのようにとらえるかについて、様々な説が展開されている。しかし要するに、宗教的価値観と世俗的価値観ということでいうならば、その両者の緊張関係はひとり浄土真宗のみならず、あらゆる宗教についてあてはまる。そして従来の真宗教団においては、「真俗二諦」が主流をなしてきた。たとえば蓮如は次のように言う。

王法をもっておもてとし、内心には他力の信心をふかくたくわえて、世間の仁義をもって本とすべし。これすなわち当流にさだむるところのおきてのおもむきなりとこころうべきものなり。(御文第2帖第6通)

ここで王法とは今日でいえば法律と読み替えてもよい。また世間の仁義とは世俗的道徳といってよい。蓮如は、それらを軽んずることなく、信心のことは内面のこととして、それを表立たせることのないように、と釘をさした。これは、善意で解釈するならば、真宗信心を露(あらわ)にすることで弾圧を受けることがないように、との配慮によると解釈することもできるかもしれないが、客観的に言うならば、世俗への妥協ないし権力への迎合である。実際にその後、真宗教団は江戸幕藩体制に組込まれて、宗教的原理たる浄土を死後の世界においやり、現世娑婆ではいかに苦しくとも死後の救いがあるとして、信心を矮小化していったのである。さらに明治以後の日本が帝国主義の道を歩み戦争に邁進していくにあたり、真宗教団がこれを積極的に支えていくために、真俗二諦論がその理論的支柱となったことは多くの識者が指摘する点である。たとえば、明治期の真宗教団では、二諦を車の両輪にたとえ、国家の命に服すること(兵役、神宮参拝)は俗諦として真宗門徒の守るべきモラルであることにされた。その典型的表現が「生きては皇国の忠良となり、死しては安養の往生を遂ぐ」になる。

これは、真宗教団が天皇制国家の弾圧を受けたためにやむをえず国家に迎合した、というのではない。まったく自らの意志により、真宗教学をねじ曲げたのである。例えば、戦後宗務総長をつとめた暁烏敏は、戦時中に

「戦争は人間浄化の重大な神業である。私どもは戦いのために戦いを好むものではないが、戦いは人間を浄化する神仏のなさしめたまうところである」
「私は戦場に行く人を菩薩の行を行ずる人である、神仏の活動をする人であると思うときに、合掌礼拝せずにおられない」
「今日の日本臣民は子供をお国の役に立つように、天皇陛下の御用をつとめるように念願して育てにゃならんのであります。…日本の臣民は天皇陛下の家の子供として、天皇陛下の御用にたち、そしてお国のお役にたてさしていただくということは、役人ばかりでない、百姓でも、町人でも、すべてその心得がなくてはならんのであります」

などと言っているが、彼はこれらの発言を戦後も撤回してはいない。暁烏だけではない、曽我量深や金子大栄など、真宗大谷派の代表的な近代教学者こぞって似たり寄ったりである。真俗二諦論はかくして、俗諦と真諦とを車の両輪であるとして俗諦を重視するばかりか、極端な場合は、俗諦が真諦を凌駕する事態にまで至ったのである。しかし、本来の仏法からするならば、私たちの生活の中心には真諦がすわってなくてはならない。仏法ではどうか、という発想が先にこなくてはならない。

本題に帰ろう。俗諦に関するかぎり、竹橋氏が「すべてにおいて完全に正しい答えというものは存在しない」というのは正しい。社会は常に変動する。何が正しいか、あるいは何が最善であるのか、私たちはその時々で判断をせねばならない。絶対の正しさは存在しない。むしろ、絶対という考え方を排して批判的なものの見方をせねばならない。しかし、こと真諦については、これは宗教的真理として、絶対的真理として受け容れねばならない。「諸行無常」という法は、まさしく絶対の正しさが存在しないことを示唆するが、だからといって「諸行無常」という法そのものも絶対に正しいとはいえない、と言ってしまっては、虚無主義になってしまう。これは私たち一人一人が自覚的に、何をよりどころとして生きるのかという問題に関わって、これだけは確実、というものを持たないではおられないということである。絶対に正しいというわけではない、そのような曖昧なものに帰依するわけにはいかないのである。仏教徒にとって仏法は絶対である(ただし、キリスト教徒や無宗教の人にとっては絶対ではない。それは立場の違いとして認めねばならない。客観的な意味での絶対をいうのではなく、自覚の内容としての絶対をここではいう)。だから、私たち仏教徒は「釈尊の金言」と尊ぶ。その釈尊は戦争に関してどう教説しているか。

「生きものを自ら殺してはならぬ。また他人をして殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ」(スッタ・ニパータ)

素直に読むならば、竹橋氏と違って釈尊は「戦争は悪い」と教えており、それは絶対の金言として仏教徒に響いてくる。竹橋氏がそうは受け取らないのは、これを真諦ではなく俗諦としてしか理解していないからではないだろうか。竹橋氏が戦争を肯定しているわけではなかろう。ほとんどの人は平和を愛する。しかし、戦争は私たちの善意とは関わりなく迫ってくる。その時に、どう自分の態度を決するか。不殺生を世俗の道徳か法律の問題だと思っている限り、日本が他国と戦争を始めようとする時、断固として反対できまい。政治や外交の問題ではなく、仏法の問題として戦争を真摯に考えねばならぬ。政治や外交ならば、その時々の情勢いかんでどのようにも態度は変わっていくだろう。

実は「戦争は悪い」うんぬんは、竹橋氏の講義(講題は「真宗儀式の教相」)においては本題というわけではない。「われわれはだれでも間違うことがあるものだ」という話の中で出てきたものである。竹橋氏の講義を実際に聴いた方、あるいは講義録を読んだ方は、あるいは私の上記の批判を「重箱の隅をつっついている」ような印象を持たれるかもしれない。ところが私は、講義の本題とは直接に関係ない話をなぜここで唐突に持ち出されるのか、むしろその真意が問題だと思っている。この話はなくても、十分に講義としては成立しているはず。にもかかわらず、なぜあえてとりあげられなければならなかったのだろうか。昨今の社会情勢の中で、反戦平和の運動が下火になり、護憲をいうだけで「売国奴」と揶揄され攻撃されるような事態が進行している。戦争反対を正面から主張することに、かつてとは違って今やかなり勇気が必要になってしまった。そんな中で、竹橋氏が「戦争反対を絶対の正義としてふりかざしてはならない」と主張することは、氏の本意ではないかもしれないが、客観的には戦争推進勢力を利することになりかねない。

竹橋氏の「われわれはだれでも間違うことがあるものだ」というお話は、まったくもってそのとおりだが、その例証としてはむしろ、暁烏敏・曽我量深・金子大栄などを引き合いに出した方がよくはなかったか。

(B.E.2557年/A.D.2014年10月20日脱稿)