初期仏教の教義
1. 釈尊の沈黙
いわゆる「無記」
現実から遊離した問題(世界は有限か無限か,身体と霊魂は同じか別か,如来は死後も生存するかしないか...)については,いっさい答えない.
釈尊の教説は苦悩の解決を目指すもの,議論のための議論に陥ることを批判した.
しかし,釈尊は懐疑主義者ではない.経験的な問題については明確な主張を持つ.
(資料1)
2. 諸行無常
三法印の第一
法印とは?(資料2)
「諸行」=すべての現象的存在
<縁起の道理>より「すべての存在は無常である」ことが分かる.
すべては原因・条件によって存在しているから,絶対ということはない.基になっている原因・条件によってどんどん変化していく.
いわゆる「無常観」--もののあわれ--のような情緒的な感じ方とは違い,厳密に論理的な考え方(資料3)
「永遠のいのち」を説くのは仏教ではない
また,生成変化する現象の背後にそれを支える永遠不滅な何かがある,と主張するのも仏教ではない.
(後に大乗仏教では方便として,「永遠なる仏」を仮説する(方便法身)ことがある.)
3. 一切皆苦
三法印の第二(大乗三法印では省く)
無常であるものに執着する-->苦
四苦八苦
生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦
生まれることも苦しみである!
私たちの日常感覚「苦あれば楽あり」「禍福はあざなえる縄のごとし」
日常感覚で感じる楽は本物の楽ではなく刹那的幻想にすぎない
本物の楽とは=涅槃
しかし仏教は厭世主義ではない
4. 諸法無我
三法印の第三(または大乗三法印の第二)
「諸法」=すべての存在
「我」(アートマン)=霊魂 (自我,自己の意味ではない)
=肉体の滅んだ後も生き続け永遠に輪廻しつづけるような精神的実体
諸法無我の二つの意味
(1)無霊魂説(認識論)(資料4)
(厳密には,霊魂は存在しないと主張するのではなく,霊魂はどこにも認めることができない,とする説)
したがって,死後の霊を云々するのは非仏教
霊肉二元論(キリスト教)<-->五蘊仮和合論(仏教)
五蘊=色(身体)・受(感覚)・行(意志)・想(想像)・識(認識)
仏教は輪廻転生を主張するのか?(資料5)
(2)自分自身への執着を戒める(実践論)
確実な私は存在しない.不確実な私を判断の基準にしたり,それに執着することは愚かである.
ゆえに,仏教は自己の確実性を否定する教えである.
(ただしこの意味で使われる無我の「我」はアートマンではない)
5. 涅槃寂静
四法印の第四(または大乗三法印の第三)
涅槃とはニルヴァーナまたはニッバーナの音写語
涅槃=寂静=煩悩が滅して穏やかな状態 <--仏教の目的
生身の人間に煩悩を完全に滅し尽くすことは可能か?
煩悩の滅とは?
滅(ニローダ)=抑制,停止,止滅,---絶滅ではない
「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の意味するもの(資料6)
「涅槃はこの世において得られるとするのが仏教の基本的立場である」(藤田宏達)
-->見法涅槃(認識された法としての涅槃)=願生浄土の仏道(資料7)
6. 無神論
仏教はいかなる絶対者も認めない無神論である.
キリスト教やイスラム教の世界観とは正反対であり,妥協の余地はない.
仏教は,万物に霊性を認める汎神論でもない.
「神も仏も最終的には同じ」は正しいか?
アミダ仏=神か?
仏教における神々(唯一神ではない)の位置
神々は迷いの存在であるから,覚りをえた仏に及ばない
護法善神説と本地垂迹説
神祇不拝
7. 八正道
正見・・・縁起の道理を正しく見ること
(見=見解,哲学的立場)
正思・・・正見に基づいて正しく思惟すること(意業)
正語・・・正しい言葉を用いること(口業)
正業・・・正しい行いをすること(身業)
(不殺生,不偸盗,不邪淫,布施など)
正命・・・規則正しい生活をすること
正精進・・・自己批判の精神にのっとって正しい努力をすること
正念・・・正しく注意力を対象に向け,正しく憶念すること
正定・・・正しい禅定(平静な状態で思考を集中する)
八正道=苦楽中道
以上をまとめて,三学
戒・・・正語,正業,正命
定・・・正念,正定
慧・・・正見,正思
(正精進は全体に共通する)
戒によって生活をととのえ,定によって精神を統一し,それによって智慧を得る,というのが仏教の基本線
資料
1.「マールンクヤよ,世界は常住であるとか,または無常であるとかの見解があっても,清浄の行が成る道理はない.むしろ,それらの見解があるところには,依然として,生老病死,愁悲苦悩がとどまり存するであろう.わたしは,この現在の生存において,それらを征服することを教えるのである.その故に,マールンクヤよ,私の説かないことは,説かれぬままに受持せねばならぬ.わたしの説いたことは,説かれたままに受持せねばならぬ.マールンクヤよ,世界の常・無常・有辺・無辺などのことは,わたしはこれを説かない.何ゆえに説かないのであるか.実にそれは,道理の把握に役立たず,正道の実践に役立たず...」
(マッジマ・ニカーヤ6:3)
2.「こと・ものすべて無常なりと,智慧もって見通すときにこそ,実に苦を遠く離れたり.これ清浄にいたる道なり.
こと・ものすべて苦なりと,智慧もって見通すときにこそ,実に苦を遠く離れたり.これ清浄にいたる道なり.
こと・ものすべて無我なりと,智慧もって見通すときにこそ,実に苦を遠く離れたり.これ清浄にいたる道なり.」
(ダンマパダ277,278,279)
sabbe saṃkhārā saniccā, sabbe saṃkhārā dukkhā, sabbe dhammā anattā
3.「すべては無常である.怠ることなく精進しなさい.」
(マハーパリニッバーナ・スッタ)
「すでに無常の風来りぬれば,すなわち二つのまなこたちまちに閉じ...ただ白骨のみぞ残れり.あわれというもなかなかおろかなり.」
(蓮如「御文」5-16)
4.「仏教は宗派によって大きく考えが異なる.しかしながら一つだけ共通していることがある.それは実体すなわちアートマンの否定である.」
(Murti, The Central Philosophy of Buddhism)
5.「この世からあの世へと繰り返し繰り返し,生まれ死ぬ輪廻を受ける人々は,無明こそによって行くのである.この無明とは大いなる愚痴であり,それによってこそ長い輪廻があるのである.しかし明知に達した生けるものたちは,再び迷いの生存に赴かない.」
(スッタ・ニパータ729,730)
6.「もし人,生死の他に仏をもとむれば,ながえを北にして越に向かい,おもてを南にして北斗を見んとするがごとし.いよいよ生死の因を集めて,さらに解脱の道を失えり.ただ生死すなわち涅槃とこころえて,生死としていとうべきもなく,涅槃としてねがうべきもなし.このときはじめて,生死をはなるる分あり.」
(道元『正法眼蔵』「生死」)
「惑染の凡夫 信心発すれば 生死即涅槃なりと証知せしむ」(正信偈/聖p.206)
「よく一念喜愛の心を発すれば 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」(同上/聖p.204)
「度衆生心ということは 弥陀智願の廻向なり 廻向の信楽うるひとは 大般涅槃をさとるなり」「弥陀の智願海水に 他力の信水入りぬれば 真実報土のならいにて 煩悩菩提一味なり」(正像末和讃/聖p.502)
7.「涅槃界そのものとして私の国土を比類ないものとしよう」(無量寿経/聖p.12)