土着仏教vs正伝仏教

-秋月龍みん『誤解だらけの仏教』を読む-

誤解だらけの仏教何が正しい仏教か、という問いはしばしば物議をかもす。宗教というものは、歴史を経るほどに様々な教義解釈が生れ、宗派の違いとなり、かつ地域土着の宗教と干渉しあって変容を遂げていくことが避けられない。そんな中で、「これが正しい仏教、あれはまちがった仏教」と主張することは無用の対立を生むだけだから、そんな議論はやめよう、覚りに至る道はいろいろあるけれども目指す頂上は同じなのだからお互いに認めあおう... そんな雰囲気が蔓延している。

しかし... 自分で仏教だと宣言しているならそれでいいのか。オウム真理教も仏教の一つとして認めるべきなのか。オウム真理教による犯罪が表面化する以前、多くの宗教学者はオウム真理教を仏教だといっていた。いや、あれは極端で、殺人を犯すようなのは宗教じゃない、というならば、キリスト教も宗教ではない。なぜならば、異端審問で大勢を死刑にしていたのだから。そういう問題ではなかろう。そういう表面的な問題ではなく、あくまでも教義から判断すべきではないのか。

私はオウム真理教を仏教だとは認めない。反社会的な存在だから、ではない。宗教は多かれ少なかれ反社会的なものだ(世俗の道徳には従わないという意味)。そういう理由ではなくて、その教義が反(非)仏教的だからである。その同じ理由により、私は密教を仏教とは認めない。そのように私が考えるに至ったきっかけを作ったのが本書である。すなわち、誤解だらけの仏教=まちがった仏教=反(非)仏教とは何か、を明らかにしている。それが明らかになることにより、逆に正しい(ortho[正]doxa[見])仏教とは何かが明らかになる。正邪を決する、という方向を嫌う方・融和主義傾向にある方には、本書はお薦めしない。

(ただし、正邪を決するということは、異なる意見の相手を攻撃することとは違う。議論をたたかわせる相手と良好な信頼関係を結ぶことはできるのであって、議論とケンカは全く別である。日本人は議論が苦手だといわれるが、おそらく両者のわきまえができていないからではないだろうか。議論すると、議論に負けた側は感情を害するからやめましょう、などというのは、運動会で競走すると負けた子が傷つくからやめましょう、という幼稚な平等主義と同じである。)

秋月老師といえば、鈴木大拙の高弟として鈴木禅学を継承し、継承するにとどまらず「新大乗運動」を提唱し、「秋月禅学」「秋月仏教学」を確立した方として、その名が知られている。老師の著作の多くは難解であるが、一般向けの著作も少なくない。『「新大乗」の旗のもとに』、『現代を生きる仏教』、そしてこの『誤解だらけの仏教』は、秋月仏教学の入門書ともいえる。

私はこの本を三度読み返した。初読は1994年、これが今日の「私にとっての仏教」を基礎付けている。読み返しているうちに気づいたのは、これが真宗入門書として書かれた、といってもあながちまちがいではないのでは、ということである。むしろ真宗門徒にこそよまれるべき本だと思う。例えば、老師のいう「即今・当処・自己」あるいは「絶対現在」は、真宗門徒ならば「現生正定聚」として理解できるはずである。そもそも老師自身、真宗門徒の家庭に育ち、自らを「親鸞教徒」とも称し、臨済禅の師家という狭い枠にはとらわれないグローバルな視点を持つ。その視点は、ヨーロッパ哲学やキリスト教にもおよぶ。

秋月老師にとって仏教の大事とは、初期仏教の無我説=無霊魂説(したがって、輪廻転生すなわち前世や後世の否定、あるいはあの世の否定もここに含まれる)及び大乗仏教の般若空観である、と述べられる。これからして、無著・世親の唯識仏教でさえも、数多くの学説の一つに過ぎないとされる。この「大事」とは、ここをはずしたら仏教ではない、という意味であり、老師がそれをいかに大事にされているかは、たとえば老師が敬慕する道元に対してさえ、道元の主張する三世(前世・現世・後世)は認められない、とはっきり言われることからも、徹底具合がわかる。

私が特に印象的だったのは、「正しい仏教は土着思想と対決する」という章である。最近は、山折哲雄のように、代表的な真宗イデオローグでさえも習俗やいわゆる日本人のたましい(先祖崇拝、神仏習合、あの世観念...)というものを重視したがるむきがあるが、真宗こそ土着思想と対決できる最左翼[ラジカルという意味]に位置しているはずだ。これに対して、「密教はそうした非仏説への危険性の最右翼に位置する」(105頁)が、「正しい仏教は、こんな思想の中に潜む土着宗教の宗教的嬰孩性と前近代的反科学性・邪教性とを厳しく批判するものでなければならない」(108頁、太字は原文では圏点)「こんな思想」とは、この文脈では汎神論(汎仏論)のような神秘主義を指しているが、それだけでなく、本書の随所には、ひろさちや、高田好胤、梅原猛らの思想、すなわち日本古来の宗教観と仏教とを調和的に説く論調が厳しく批判されている。(「神話知」の復権を叫ぶ熊谷宗惠・大谷派宗務総長は、ぜひこのところを読んでいただきたい)
「(梅原)教授の言うような『日本人の魂』などを認めたら、『無我』の仏法は死んでしまう」(95頁)

「覚の宗教と信の宗教」の章においては、禅仏教と真仏教の対比がてぎわよく解説されている。自力をつくしてはじめて他力が分かる、また他力の本願不思議によってはじめて自力がひらける、ということが理解できる。また、この比較が大切であるのは、仏教とキリスト教との対話の基盤でもあるからだ。宗教間対話とは、単に、おたがいなかよくやっていきましょう、などというレベルの話であってはならない。厳しい相互批判と共通点のあぶりだしがないならば、意味がない。

ポストモダニズムについては、老師が単純に近代西洋を否定して東洋回帰を主張しているかのように誤解しないよう、注意したい。本書のいくつかの箇所で、老師は前近代性を批判していることからも明らかなように、近代主義は一定の積極的な役割をはたしたことは事実である。むしろ、日本では近代化が科学技術産業の分野に限定され思想的な近代化が立ち後れていたことが指摘される問題は、近代主義がその役割をおえた時代にあって、それにかわるパラダイムをどう築いていくか、であって、思想界における大きな問題である。単純に、伝統的東洋思想をもちだして代替にすることなどできるはずがないのである。ここを多くの「近代の超克」論者は勘違いしている。むしろ、西欧の思想的哲学的伝統の懐の深さ、思索の強靱さにはとてもかなわない、と思わされる。老師自身、西欧の哲学に精通しておられる、その上で西洋と東洋との対話交流、そしてそこから生まれる「より深いヒューマニズム」が可能となる。というわけで「神話知」の復権など笑止である。某巨大新興宗教の「対話活動」のほうがまだましではないか。

私は、かくのごとく老師から多くを学び、私の第一の師であると思わせていただいている。とはいえ、いくつかの点では納得しきれていないのもたしかである。第一に縁起の理法への評価、第二に「本来の自己」の顕現について、第三に如来蔵思想への評価である。

縁起の理法について。釈尊は何を悟ったのか、について、老師は「無我の我」を悟ったのであって、「縁起の理法」とは後からつけた理論的な説明に過ぎない、という。もちろん、縁起が無我や空と同義であることを認めた上でのことである。とすると、問題は「理法」(ロゴス)のほうにあるのだろう。(ここが禅者たる所以なのであろうが)悟りは理詰めの思索ではなく無分別智・霊性的直覚であって、悟り体験を持たなければ「ウンもスンも言えない」のだそうだ。こういわれては、そのような体験をもたぬ私としてはおそれいるしかないところだが、蛮勇をふるって言わせていただければ、実際に悟りにほど遠い99%の人間にとって、少なくとも私にとって、仏教へのアプローチは「縁起の理法」以外にはあり得ないのである。なぜならば、老師と違って仏=覚者たりえぬ私にとっては、真実を見出そうとすれば仏の言葉(ロゴス)の中にしかない、端的に言えば、仏法即理法なのである。言葉で表現できぬ無分別智とやらは私には縁がない。はっきりいって、私は体験を信用しない。いや、覚の体験にあこがれないことはないのだが、体験というものは本質的に個人的なものだから、そういうものにたよっていたら、仏教は普遍宗教にならない。普遍宗教でありうるためには、いくら限界があろうともロゴスによるしかないのである(これについては後日詳論しようとおもう)。

「無我の我」あるいは「無位の真人」「無相の自己」「自我(エゴ)に死んで自己(セルフ)に生きる」については、それが言語として表現された限りにおいて理解可能である。ただし、「本来の自己」「心性本清浄」は違和感がある。これは最近問題になっているらしい「還浄」(浄土に還る)ということとも関連するが、本覚思想と見誤りかねない危うさをはらんでいる。本来の自己とはどこにあるのか。「仏陀においては<自己>と<法>とは一つであったはずである。『<法>(ダンマ)が露わになる』というときにも、その<法>は<自己>でなければならない」(86頁)とのことであるが、「でなければならない」という言明は、当為(sollen、あるべき)であって存在(sein、あるはず)ではない、少なくとも私にとっては。「本来の自己」は、最近の真宗でも好んで使われる表現だが、違和感を感じざるを得ない。そういう意味では、浄土とは往生すべき場であり、還る場にあらず、というのが私の立場である。主体の確立の強調ならば、「本来の自己」をいう必要はないはずではないか。

むろん私とても、本来の仏教がアートマン・実体の否定にとどまるような痩せた宗教ではないと思うからこそ、<法>にうらづけられた<自己>を求めたい。しかしそれが自己の内に内在しているとは考えない。仏教は超越的イデーを立てないのだといわれようが、「本来の自己」という表現からは、どうしても(老師が否定しておられるところの)「大我」しか感じられないのだ。これが私の誤解によるものならばむしろ幸いだ。

如来蔵思想について。如来蔵や仏性の原義は、「仏を生み出す基体」(ブッダ・ダートゥ)であることがあきらかになっているのだから、それを「仏陀の本性と解するのに異論はないが、仏になる可能性と解するのに反対である」(155頁)といってみてもはじまらない。基体・可能性という理解に基づいて如来蔵思想が生まれたのは、かなりの程度確からしいのだから、無我・空の立場からは、非仏説といわざるをえない。駒沢の批判仏教学派について、「我々はいかなる意味でも、それ(仏性、如来蔵)を実体視しているわけでは断じてない。彼らはこの点を誤解して、私もやはり何か常住なる実体を立てているように見て、私を批判しているのではないか」(159頁)といわれるが、そうであるならば、仏性という語は使うべきではないと私は考える。大乗涅槃経の「如来常住 無有変易」について、「経の語だからといって盲従する必要はない。ばあいによっては、はっきり否定しても少しもかまわない」(154頁)と言い切っておられるほどであるからこそ、仏性・如来蔵についても、本来の意味および歴史的な用法に着目していただきたかった。

本書データ/『誤解だらけの仏教』秋月龍みん(王+民)著;柏樹社刊;1993年4月;ISBN: 4-8263-0076-X;単行本;20cm ;246頁;2000円(税込)