「科学としての仏教」とは仏教学のことではありません。文献学でも哲学でもありません。心理科学としての仏教というくらいの意味です。
従来、宗教と科学とは全く別、ときとして矛盾するものと考えられてきました。キリスト教はそのまま聖書の記述を信じると科学と矛盾します。アメリカでは全人口の4割が進化論を否定して創造論(人間は神によって創られた)を信じているというデータもあります。仏教の場合は、科学と矛盾しない宗教、と一般に認知されているものの、それでも近代科学とは別の範疇だとされています。両者の間に越え難い垣根が設けられてきたのです。
ところが、近代科学としての心理学において、トランスパーソナル心理学という潮流が生じてから、事情が変わってきました。すなわち、心理分析にとどまらず、自我の超越にまで射程が延びてきたのです。この辺りの事情に私は詳しくないのですが、本書は「仏教とアドラー心理学」が統合できる、いや統合されねばならない、という主張がベースになっています。そのために、両者の類似性、なおかつ相補的な関係にあることが論じられます。こうして心理学と統合される仏教はもはや宗教というよりは科学になります。実際に「仏教心理学」という学問は、『禅と精神分析』(鈴木大拙、エーリッヒ・フロム)以来およそ60年の歴史を有しているわけです。ただ、これはあくまでも応用仏教学のひとつで、心理学との統合にまではいたっていません。
アドラー心理学については、私は2015年に知ったばかりですが、「心理学の三大巨匠」として、フロイト、ユングにならんでアルフレッド・アドラーが挙げられるのだそうです。アドラーは当初、フロイトの共同研究者でしたが後に袂を分かち、「個人心理学」を創設しました。ここでいう「個人」とは社会との対立概念ではなく、”individual”(分割できない全体的存在)のことです。アドラーは、健全な自我の確立は、共同体感覚、すなわち人は個人的存在であるに留まらず社会的存在でもあることの自覚によって保証され、それがひいては社会の進歩にもなるとして、健全な自我が育っていない人を治癒する心理療法を提唱し実践しました。
仏教では「無我」が強調されるので、自我の確立をいうアドラーたちとは対極にあると思われるかもしれません。しかし考えてみると、生まれたての乳児には自我意識がありませんが、成長するにつれて自他の区別・分別ができるようになる、これが健全な姿です。ですから、一律に自我を否定することは危険なのです。いったん自我が確立し、自己実現がはかられた後に、無我あるいは自我の克服にすすむべきです。ただ、とりわけ近代では人々の自我意識はどうしても肥大しがちになり、それがために苦悩が絶えないわけですが。
仏教には健全な自我を育てるための理論が欠けています。いっぽうでアドラー心理学では自我の確立、自己実現までが課題であり、その先がありません。そこで両者の統合の可能性がある、というのが著者の主張です。しかし両者は単に相補的であるだけでなく、基本的な考え方に類似性が見出されるのです。とりわけ著者が高く評価するのが唯識仏教です。
唯識といえば、「外界は実在しない、心が作り出した幻のようなものだ」という主観的観念論(唯心論)の側面もありますが、本書ではそのような側面は捨象され、唯識学派が深層意識を驚くべき精緻さで分析し、なおかつ病的自我意識の克服から自我の超克に至る実践的道筋を論理的に示していることを詳述します。
仏教のキータームは「縁起」といえます。すなわち釈尊は縁起の理法を覚った、あるいは無我を覚ったわけですが、ようするに、人(生き物)は個々バラバラな存在ではなくてすべてがつながりあっている、にも関わらず人は言葉によって対象を分別することに慣れきっているので、どうしても自我を他者とは別個の存在と思い込み、それに行動が規制されてしまうわけです。それを転換するためには、唯識の「転識得智」、具体的には六波羅蜜の実践による生き方の改善が大切だというわけです。これは心理療法ときわめて親和性が高い方法論です。医師あるいはカウンセラーがクライアント(患者、仏教でいえば病める衆生)を治癒するにあたり、まず診断し、治療の方法を示し、インフォームドコンセントに基づいて、そして療法を実践していく、それと同じことが仏教でもなされているといいます。覚りといえば神秘的な感じがしますが、理論は極めて明快です。問題はそこに至るまでのプロセスをすべての人が実行できるわけではない、ということです。しかしながら、最後まで達成できなくとも、現状よりも少しでも改善されればよいではないか、と著者は言います。これは医学的な考え方なのでしょうが、たしかにそう言われれば気が楽になります。
本書では主として唯識仏教に焦点があたっていますが、四諦八正道、三法印、空の思想など、仏教の基本教説はすべて明快かつ平易な解説がなされています。とりわけ十二支縁起についての解説は、驚くほど分かりやすいです。私自身これまで数多くの仏教書を読んだり講義を受けてきましたが、十二支縁起については本書で初めてその意味をきちんと理解できました。このような明快で深く易しく解説された書物が、仏教の専門家ではない心理学者によって著されたことに深く敬意をいだきます。(しかも著者略歴によれば、神学科を卒業した牧師さんでもあるようで、なおのこと驚きます)
本書データ/単行本: 369 p ; サイズ(cm): 19.2 X 13.6 ;出版社: 佼成出版社 ; ISBN: 433302465X ; (2010/10)