本書は、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(プロ倫)にならって、行基や鈴木正三の思想の中に資本主義の精神が見出される、ということ明らかにするために書かれたのだという。
(帯書きには、「資本主義のルーツは日本にもあった!」となっていて、「精神」Geistが抜けている。しかし、「資本主義」と「資本主義の精神」が全く別のことがらであることはヴェーバーを読まずとも明らかであろう。売らんがためにいいかげんなキャッチコピーを付けてしまう「週刊新潮」路線か...)
『プロ倫』...懐かしい。大学の社会学だったか社会学史だったか宗教社会学だったか、もはや忘れてしまったが、課題文献として読ませられた。当時みなが通ぶって『プロ倫』と言い習わしていたようだが、かなり難解である。大塚久雄先生でさえ難解だとおっしゃっているのを、ふつうの学生が一回読んだだけで理解できる代物ではない。私もそれ以来読み返すことはなかったのだが、『仏教と資本主義』で言われていることが本当かどうか確認するため、本棚の奥から引っ張り出し、埃を払って読み返してみた。読み返してみても難解さはかわらない(当たり前か...)。かろうじて、大塚久雄先生の解説で分かったような気になる。
そんな程度の理解しかできない私が、ヴェーバーを相当に研究されているらしい著者・長部氏を批判するのは思い上がりであろうが、私にはどうしても本書の論旨が分からない、納得できない。
最大の問題は、行基や鈴木正三の思想にプロテスタンティズムに相通じるものがあったとして、どうしてそれが「資本主義の精神のルーツは日本にもあった」と結論付けることができるのか、ということである。新書という性格上、緻密な論理や史料を読み解く過程にスペースを費やすことはできないことは分かるが、それにしても本題と関係ない唯識や玄奘三蔵の解説をしているくらいなら、もっと本題の解明にスペースを割いていただきたい。個々の思想家・宗教者の間に類似の思想が見出されるからといって、時代や社会のエートスが共通していることにはならないのである。
ここで私が<エートスEthos>という語を敢えて使用しているのは、それがヴェーバーのいう「資本主義の精神」を理解するには欠かせない概念装置だからである。これは<階級>を基本的概念装置とするマルクス主義とヴェーバーとの決定的違いだ。エートスとは、特定の民族・社会・時代・文化などの気風・精神・思潮などを通常は意味する。ただしヴェーバーにあっては、この語は、宗教倫理や世俗倫理に由来する規範(Ethik)という側面と、それが歴史の中で血肉化されて形成された客観的な社会心理という側面を持つ。ヴェーバーが『プロ倫』において解明しているのは、単に経済的な営み一般ではなく、近代資本主義すなわち産業経営的資本主義を形成していったエートスなのであって、「勤労意欲」だとか「合理的精神」だとかの特徴は付随的なものにすぎない。そうした個々の徳目を一つの統一した行動システムにまでまとめあげていくようなエートスこそが「資本主義の精神」だ、と大塚久雄先生は注意しておられる。ましてや「民間活力の導入」「反官僚主義」は近代資本主義とは本質的に関係ない。
そしてそのエートスの中核たる「世俗内禁欲」について、著者がほとんどふれていないのは奇怪である。これこそがプロテスタンティズムと資本主義の精神をつなぐ紐帯にほかならない。逆に言えば、非プロテスタント地域において資本主義が生まれなかった理由は、世俗内禁欲というエートスが存在しなかったからである。日本社会・日本仏教においてそのようなエートスが存在しなかったことはいうまでもない。「世俗外禁欲」さえかなり怪しいのは、比叡山を見ても分かるとおりだ。著者は「禁欲」よりは「利他精神」を重視しているらしく思えるのだが、それならばヴェーバーが解明したのと同じ方法論を使って、利他精神を血肉化した人々が日本においてすすんで経営と労働に邁進していった事実を示すべきだったろう。東大寺大仏殿の建設を主導した行基に利他精神があったことを証明しただけでは不足である。現場で働いていた人夫達が行基の思想を受け入れ、進んで信仰心から労働に参画していったという事実を史料で解明しない限り、1300年前の日本に資本主義の精神が存在したことは証明できないのである。同じことが、鈴木正三や石田梅岩への評価の仕方についてもいえる。いずれにせよ、ヴェーバーの一番最初の問題意識「なぜ近代資本主義は、利潤追求に寛容であった地域で生まれず、逆に禁欲を強調したプロテスタンティズムの地で発祥したのか」を、著者は考え直してみるべきだ。ヴェーバーは事実から出発して理論化した。著者は理論(?)を説明するために都合のよい事実を選び取っているように思われる。
あえて、日本における資本主義精神のルーツを探るならば、近江商人ではあるまいか。もちろん、近江商人から近代資本主義は生まれなかったし、彼らのエートスがプロテスタントのそれと同じというわけでもない。しかしながら、近江商人が真宗のエートスの中で生れ育ち(真宗は、日本仏教の中でもエートスをもちえた特異な存在である。顔を見れば真宗人だと分かる、というほどに、信仰が文化・慣習にまで育った時代もあったのだ)、「自利利他円満」「勤労公正」を旨として活動し、結果として巨富を有する商業資本家となった。ヴェーバーは、プロテスタンティズムと真宗の類縁性を指摘しているが、近江商人のことまでは言及し得なかった。ロバート・ベラーは『徳川時代の宗教』(岩波文庫)で、日本の近代化の成功を宗教との関連で解明しているが、この著作に大きな影響を与えたのが、内藤莞爾の論文「宗教と経済倫理―浄土真宗と近江商人」だったという。私はこの論文は未見なので詳しいことは分からないが、長部氏がいやしくも日本仏教と資本主義の関係を論ずるならば、当然言及があってしかるべきと思うのだが、なぜ無視されているのか分からない。
なお、ある方から金達寿『行基の時代』(朝日新聞社)という本のことを教えていただいた。その方は、
「金達寿も、あとがきで奈良時代における行基の行動を通じて今日・現代の社会主義というものを自分なりに考えなおしてみたかった、と書いています。私もこの本をよんで同じように感じたしだいです。」
と私に書き送って下さった。行基の利他精神を資本主義の精神というのか、社会主義の精神というのか、人によって見方ががらっと変わるのは興味深いが、行基自身が今の時代にあれば、「私はあくまで仏教者。資本主義でも社会主義でもない」と言うのではあるまいか。
最後に。上述のごとく、私は本書に対して批判的であらざるをえないが、一つ共感したことがある。それは本書の末尾に記された次の一節である。
「わが国の最大の武器は、軍事力ではありません。カントが国家権力の所有する力のなかで、結局もっとも信じられるものとした経済力と、国際紛争を解決する手段としての戦争は、永久にこれを放棄する、と宣言した憲法第九条です。」(194頁)
本書データ/『仏教と資本主義』長部日出雄著,新潮社刊,2004年,ISBN4-10-610063-0,新書判,197頁,680円(税別)