西欧と仏教との格闘

-ロジェ=ポル・ドロワ『虚無の信仰』を読む-

カバー絵 仏教がはじめて西欧にもたらされたとき-ここでは古代ギリシアの文献やイエズス会の宣教師たちによる報告は別問題である-,すなわち1820年ごろからはじめて19世紀後半に至るまで,西欧が仏教について根本的な誤解を持ち続け,それによっていかに仏教を怖れたか,について克明な報告と分析を加えたのが本書である。

したがって,仏教の教義の闡(せん)明は本書の論点の外にある。あくまでも仏陀ではなく,ヨーロッパ(における異文化理解のありよう)が問題であることを強調しておきたい。この問題意識は,異文化理解や文化交流に強い関心を抱く人々にとってはとりわけ,参考になるに違いない。

著者の日本語版への序文にはこのようにある。

「それまでお互いに相手の存在を知らずにいた相異なるふたつの精神世界が出会って,お互いの世界を発見しはじめるとき,ありとあらゆる誤解やとめどもない空想が積み重ねられる。双方とも,相手の世界を発見したつもりでいるが,まずほとんどの場合,じつは夢の世界を重ね合わせて見ているにすぎない。そしてこの空想のの産物は,理想的な夢の形をとることもあれば,悪夢となって現れる場合もある。」

御存知の通り,近代仏教学の先鞭を付けたのは西欧である。言語学・文献学・歴史学といった基礎的学の上にインド学・東洋学・チベット学が打ち立てられたのは専ら西欧においてであった。そのようにして実証的学問において正確な基礎資料が整えられていったにもかかわらず,誤った仏教理解がかなり長期にわたって流布してきたのは何故なのか。著者はその誤解の根底には,西欧文明そのものが直面していた難関に由来する危機意識が反映されていたことを,詳しく指摘している。それは自らのアイデンティティの危機であり,ニーチェの宣言「神は死んだ」に典型的にみられるように,「ポスト・キリスト教の時代」の到来に予感されたニヒリズムの脅威であった。

その文明の根底にあるキリスト教的世界・歴史・価値観が,それと本質的に違う仏教的思考に出会い,最初は驚嘆と好奇心から過剰な思い入れをしてしまったが,真の仏教の中核である涅槃・空を十分認識できず,次第に「虚無」・「絶滅」への暗く歪んだ願望と曲解し,ついには「魂の絶滅」を希求するおぞましくも奇怪な「東洋的迷妄」と断じることによって自らのアイデンティティを取り戻そうとした。かくして仏教を「虚無の信仰」(絶滅のカルト)と誤解した西欧は,仏教とは「非存在を物神化し…他者・世界・自己が消え去ることを望み」,「闇に沈む深淵,魔術の支配する極地,冷えきった地獄…汚らわしくおぞましいもの」だとの奇怪な解釈に陥った。

結局「虚無の信仰」観は,西欧の支配階級が怖れた「労働者階級の誕生,民主主義への渇望,共産主義という名の妖怪,危険な階級の覚醒」などを,黄色人種や不可解で虚無的な涅槃観などへ投影させたことの産物であった。

このように本書の内容をまとめてみると,西欧のエゴイスティックな面が強調されているような印象を与えるかも知れないが,実際には,上記のような誤った仏教理解を正し,なおかつその誤りの歴史を総括したのもほかならぬ西欧であることを過小評価すべきではない。ひるがえって一般的な,あるいは中流知識階級の日本人の西欧への理解はどの程度正確かを問い直し,誤解を正し,なぜ誤解が生じたのかを総括してみる必要がある。おそらくそのためにはあと数十年かかるかもしれないが。代表的なステレオタイプの誤解として例を挙げてみる。「一神教は非寛容な宗教である」「唯物論は心の価値を低くみている」云々。

さて,「虚無の信仰」観は現在完全に払拭されたといえるかどうか。西欧の人々の生の声を聞いていないので,その判断はしにくい。ただ,スウェーデンのGunnar Gällmo 氏は彼の最近の著書 "Kelkaj faktoj pri la budhismo" (ESE, 2002)で次のように注意を促している。

涅槃とは、仏教によれば、「あらゆる生への欲求」だけでなく「あらゆる享楽や死への欲求」をも「完全に無化」することによって達成される。無への欲求は欲求の無化とは別の事柄である。(したがって、以前に「ニルヴァーナ」というロックグループのメンバーが自殺したことが「ニルヴァーナの自殺」と報じられた時、仏教徒は眉をひそめたことだろう。)

Gällmo氏がこのように注意をせざるを得なかった背景には,仏教とは "無への欲求" であるとする「虚無の信仰」の残滓が存在していることの証かも知れない。

本書データ/『虚無の信仰 -西欧はなぜ仏教を怖れたか-』ロジェ=ポル・ドロワ著,島田裕巳・田桐正彦訳,トランスビュー刊,2002年,ISBN4-901510-05-3,四六判,353+4頁,2800円(税別)