イランの伝統的宗教であるゾロアスター教やマニ教では、善と悪とはほとんど同一のレベルでの原理であるとされている(善悪二元論)。とはいえ、善が最終的には永遠の勝利を収めることが期待されているのではあるが。バビロン捕囚の時期(ちなみにブッダの生きた時代とほぼ重なる)、それまでは神と悪魔とを区別していなかったユダヤ教にこの思想が持ち込まれ、それによって、後のキリスト教とイスラム教にも影響が及ぶこととなった。
この思想の世俗的痕跡は、労働者運動の「最後の闘争」やエスペラント運動の「最終的勝利」といった考え方に見てとることができる。しかしながら、多くの国ではこの数十年の間に世俗化の波によって何らかの絶対的悪について語られることは少なくなってきているし、悪の行為の背後に原因を見ようと努められるようになった。
今日では、それはもはや政治的に正しい態度ではなくなってしまったように思われる。テヘランでもワシントンでも同様に権力者たちは、悪は理解されるものではなく破砕されるべきものだとの考えを表明し始めた。あたかも、われわれが[悪の原因について]理解することは悪に新たな力を付与する、ないし支持するものである、というかのごとくに。
仏教的な見方はそうではない。いくつかのインド由来の哲学とは違って、仏教でももちろん明確に善と悪の区別はする。しかし仏教は、そこから、ある種の人々が絶対的に悪だと結論づけはしない。かつ、もし絶対的に善といえる人間があるとすれば、それはただブッダと阿羅漢のみ、すなわち欲望と憎しみと自己欺瞞から完全に自由を獲た人々だけであるとする。
仏教の古典的な物語には、ゾロアスター教でいうアーリマン(暗黒の神)やキリスト教・イスラム教でいう悪魔に多少は似かよった、人間ではない誘惑者が登場するのは事実である。しかしその類似性は表面的にすぎない。
第一。一般的にいえば、マーラ(魔)とは自己とは別の人物ではなく自分自身の投影であって、端的にいえば、自己を誘惑し裏切ろうとする自身の内面的な傾向性である。これが仏教徒の理解・考え方である。
第二。通俗的ないし物語的レベルでいっても、仏典が描くマーラは永遠の存在でもなければ、無始このかたずっと悪であるわけでもない。じっさい、ブッダの主要な弟子の一人、モッガラーナ(目蓮)はマーラに誘惑されて次のように言って退けた、という話がある。
「おまえが成功するはずはない。私はおまえのすべてのトリックを知っている。なぜならば、私自身が、かつてはるかな昔にマーラであったからだ。そのせいで私は地獄で8万年の間つらい思いをしなければならなかった。だからおまえも仕事を変えたほうがよい。お分かりか。」
この物語を文字通り信じる必要はない。ブッダが教えたのは、苦悩に打ち勝つ方法であって、歴史でないからだ。しかしここにいわれている意図は明らかである。いかなる存在も100%、絶望的に悪であることはない。程度の問題である。昨日の悪魔が明日の聖者となることさえあり得るのだ。
もしわれわれが悪と闘うことを望むならば、その相手は第一にわれわれ自身のうちにあり(もちろんそれだけではないが)、目的に合致した方法を選ばねばならない。悪と闘うのに悪い手段をとる者は、自身を悪にする。ダンマパダには次のようにいう。
怨みによって怨みが止むことはない。怨みの反対物によって怨みは止む。これは永遠の法である。
われわれは智慧と慈悲を結合しなくてはならない。われわれの慈悲はついには悪魔にも及ばされなければならない、もしそのような悪魔が存在するとすれば。
出典:La Esperanta Budhano, 第5号, 2006年
著者:グンナ・ゲルモ(Gunnar Gällmo)。1946年生まれ。スウェーデン。1968年に上座部仏教徒として受戒。パーリ語に堪能で、『ダンマパダ』のエスペラント訳を2002年に出版。著書としては『仏教に関する諸事実』がスウェーデン語、英語、エスペラントで出版されている。翻訳家。国際仏教エスペランチスト連盟委員長。