仏と法

1

Die Geisterwelt ist nicht verschlossen; Dein Sinn ist zu, dein Herz ist tot!

上記の引用は、かの有名な「ファウスト」、ドイツの文豪ゲーテの作品の一節である。この一節は、次のような意味であろう。

精神の世界は決して閉じていない。閉じているのはむしろ君の心の眼だ。

何とすばらしい、傾聴に値する句であろうか。これは、宗教に入らんとする人や宗教的に生きている人だけでなく、すべての人々が、自らを振り返るために心して聴くべきことばであろう。

私たちはいったい、自分の眼を開いているといえるか。然り、というなら、その眼は正しく偏りのないものといえるか。ほんのわずかな曇りで覆われているとすれば、その眼はもはや、正しい、偏りがない、明らかだとは言えぬ。そのような眼で社会や国を見たところで、「我々は正しく見ている」などと言っては誤りになる。したがって、曇った眼をもってした観察からなされる批判というものもまた不正義であると言わねばならぬ。じつに、正しい視点を持って説得力ある批判をなすことは、晴れやかで洞察力のある眼を持つ人にのみ可能であって、混濁した頭脳や曇った眼を持つ人には絶対に不可能なことなのである。

それゆえ、ブッダ・シャキャムニは「正しく見、正しく考える」よう、弟子達に訓告している。しかしこれは、前述の前者に期待されることであって、党派的思考に曇った眼を持つ後者に対してではない。

もし正しく見、正しく考えることを望むなら、何よりもまず、心の眼の曇りを取り去って、正しい視点を獲得せねばならない。そのためにこそ、「悟りの道」がブッダによって説かれたのである。

では、そうして説かれた道、示された方法とは何であるか。ブッダのすべての教えはこの問題に対する回答に他ならない。

2

本質的には、仏教とは世間でいうような宗教ではない。仏教には、哲学や倫理や宗教や芸術やの諸々が含まれているのであるが、端的にいって、人間生活のすべての面を統合的に含むもの、それが仏教の教えである。三蔵を「東洋文化の宝庫」と呼ぶのは正しい。真理の門は、叩けば開かれよう。さまざまな宝が、探せば意のままに求められよう。三蔵とはそのようなものである。三蔵はそのように東洋文化にとって比類のない源泉であり全世界にとっての精神的供給庫であるにもかかわらず、その研究はまだ宗教的、哲学的、倫理的、芸術的領域に限られており、いまだその余の領域には達していない。ゆえに私は、三蔵がもっと様々な観点から研究され、比類なき宝庫が開放されることを望むものである。それはさておき、本題に戻ろう。

仏教では、三蔵に書かれていることのすべては「法」とよばれる。物質と精神、宇宙と生命、道徳と政治、等々はすべて、この「法」の一語をもって代表される。したがって法の意味は様々であり、決して定義しつくされえない。場面に応じてそれは真理であったり、規範であったり、教えであったり、実体であったり、現象であったりする。ある場合には宗教上の神かもしれないし、別の場合には概念かもしれない。

なぜ法にはそのように様々な意味があるのか?それは、ブッダの教えが宗教的側面に限定されていないという事情による。そういう非限定的な法を正しく見、正しく批評するのはかなり困難ではあるが、その困難を達成する度合いにおいて、人は宇宙や生命への関わり方を決めることができるのであるし、すべての法の価値やリアリティーが明確に知覚されてくるのである。同時に、法に対する従前のすべての幻想を取り払うことにより、人はその本当の価値を、主観的な知覚と客観的なリアリティーの光に照らされて、発見することができる。

端的に言えば、法の正しい直感によって、主観的には心の眼が正され精神世界の高貴な光景がまざまざと見えてくる、また客観的にはすべての法の価値とリアリティーが顕現してくる、ということである。そしてそれらの法の各々は私たち自身の価値を高めてくれる。

その時はじめて、正しい感覚と感情が機能を始める。それは一面ではすべての存在に対する感謝の念ともなろうし、また他面では他者の様々な苦悩からの解放へ向けての率先行動ともなろう。ブッダの精神として智慧と慈悲を挙げ、菩薩の第一の使命として四弘誓願を強調するゆえんである。(四弘誓願とは、四つの相互に関連した誓願であり、大乗仏教徒はこれらすべてを自分自身のためというよりは他者のために実践せねばならぬ。)

ブッダとは、慈悲と智慧の完璧なる具有者であり、ゆえにその根源的由来は慈悲と智慧よりなる法の体現である。とすれば、ブッダの覚りは法の体現であり、慈悲と智慧は法の産物である。同様に、「正見」「正思惟」ということもまた、法の体現者にのみ可能といわなくてはならない。

ブッダの次のような言葉は、上のような考えを示している。

法を見るものは我を見る。
我を見るものは法を見る。

ブッダが解脱後にはじめて発したとされる次の言葉「我はブッダなり。我は智者なり。我はすべてに打ち克てり」の意味も同様であろう。そしてこれが仏教の最高の到達点を意味することが理解されよう。

「涅槃」「菩提」「解脱」「第一義諦」等々もまた、上述の事柄に根本があるのである。ゆえに法の体現とは、どんな宗教にあっても最重要な意味と課題を有する。というのは、法の体現は、それによって苦悩を歓喜に転化し、死を永遠に転化し、不正を正義に転化し、愚かさを智慧に転化することを可能にする基礎だからである。

とりわけ仏教においては、法は欠くべからざる根本の基礎であって、仏教の教えはこの根本を中心として据えることによって発展する。したがって、仏教研究というもその中心は法の研究にある。そして一般的にいうならば、仏教を全体として研究するというも、あるいはすべての経典を研究するというも、それは法の体現を研究するということでなくてはならぬ。ただここでは残念ながら、そのような広い意味での法の体現をテーマとすることはできぬので、今はブッダ・シャキャムニの覚り、すなわちブッダ・シャキャムニにおいてどう法が体現されたかを述べてみたい。

3

法を体現したブッダは、すべての事物を自己に近しい新鮮なものとして認識し、それらの意味と価値を如実に知覚し感覚した。そして人生における四つの苦(生老病死)にあっても不変の道を見出して、常に清浄にして快適なる涅槃という高貴な精神状態の中で自己を平静に守り抜いた。その時以来、彼の眼に映るすべてのものは生き生きとして光り輝く存在となった。このように驚嘆すべき生の再生を経て、ブッダは心の眼の曇りをぬぐい去り、聖なる精神状態において揺るぎない生を生きた。

彼はいかなる方法によってこの高貴な精神に達したのか。

いったい彼は、他の宗教におけるように、神の恵みとか啓示によってこの精神に達したり、解放を克ち得たのであるか。否。ブッダは「神」と呼ばれるような存在を否定した。また、神へ祈りを捧げることも、狂信的迷信として排除した。ではブッダは、何かそれ以外の神秘的ひらめきによってこの精神に達したのであるか。否、これもまた彼は避けたのである。ちなみにブッダは、神や神秘などというものは酒に酔うのと同じことで永遠の光をもたらしはしないし、それにおぼれる人は人生の正しい道を指し示す指導者には決してなれず宇宙の真理を知覚することもできない、と警告している。

それゆえに、ブッダの覚りは他の宗教における救いとは根本的に異なっている。そして仏教の特徴はまさしくこの点にあるというべきである。

であるとすれば、ブッダの解放とは何を意味するのか。覚りというけれども、ブッダが得た覚りとは何なのか。

もちろん覚りとは「法の体現」以外の何ものでもない筈である。すなわちそれは、かのゲーテが言ったように、心の眼がはっきりと開かれてあることを意味する。それはあるいは神秘的、情緒的であるといえなくもないが、しかし同時に反神秘的で合理的な精神でなくてはならぬ。

サンスクリット語の「妙法蓮華経」には、ブッダの智慧の眼力を開くことについて語られている。主観的な眼が開かれるがゆえに、必然的に客観的な真理が現前する、というのである。言うまでもなく法とは、諸仏がましますかましまさぬかに拘わりなく、また人々が覚ろうが苦悩に沈もうがそれとは拘わりなく、常に厳として存在するべくして存在する。

心の眼、それによってのみ法を正しく知覚することのできる心の眼を開いてみよ。その瞬間に、法は心の眼に映し出される。

故に覚りとは、客観的な問題ではなく、徹頭徹尾主観的な問題である。別の言い方をするなら、私的で蠱惑的な闇を離れることによって、ブッダは正しい眼力、慈愛に満ちてなおかつ明らかに見通す眼力を獲得したのである。

覚りと幻想との関係は、光と闇との関係であるとも言える。したがって、「覚りを得て幻想を捨てる」といっても、「幻想を捨てて覚りを得る」といっても、結果的には同じことである。

しかしながら、このあたりの事柄は、大乗仏教の哲学的観点からは、神秘的で不可思議であると表現されている。これを不可思議な現象として表現した動機は、容易に想像がつく。というのは、献身的にして絶対平等の精神を自らに具現した者は、その精神自体でなくてはならないからである。自己を知覚する自己ということは、それ自体神秘的な意味合いをどうしても含むことになるのであろう。こういう理由で哲学的な表現が様々に存在するのはたしかだが、一言で言うならば、ただ「法の体現」ということである。

法の体現が真に不可思議であるのは、体現者自身にのみ経験することが許されているという厳しい事実である。ゆえに、ブッダの覚りにおける心理状態を本当に経験したければ、自分がまずそのような体現者になったその時にのみ可能なのである。

4

シャキャムニをとりまいていた宗教はもちろんバラモン教であり、その中で彼は生まれ、成長し、学び、バラモン教の教えに従って宗教的苦行を実践したりもしている。

とはいえ、彼の苦行の目的は苦行それ自身を経験する、ということではなかった。そうではなくて、我々の人生における苦よりの解放を目的としていた。ゆえに、六年間にわたる苦行の後に、「解脱に入る道を進むのにこれはまったく役に立たない」として、突然の転向によって苦行生活を断固として放棄したのである。

そして尼蓮禅河(ナイランジャラー河)にて沐浴し、全身を清め、新鮮な気分をもって、葉が生い茂った菩提樹の根元に柔らかな草をしきつめて座を整えた。

「解脱を達成するまでは、この座から決して離れまい」、かく固い決意と勇猛心をもって、完全なる瞑想のうちに生活を始めた。

瞑想中にいろいろな悪魔が現われてそれらに打ち克ったとの神話が残っているが、これは明らかに、シャキャムニが全力で自分自身と闘っていた際の心理状態を文芸的にドラマチックに表現したものである。私が思うに、実際は物語よりはもっと悲壮かつ強烈であったことだろう。

おそらくその時、彼には多くの幻想がしつこい悪魔のようにつきまとってきたことであろう。瞑想が深まれば深まるほど、悪魔の考えがそれだけ一層鋭さをまして彼を攻撃したにちがいない。しかし彼は繰り返し自分を勇気づけ、正思という弓に正精進という矢をつがえて悪魔に立ち向かっていった。自己の依って来たる処に向かって、彼は自分の精神を掘り起こし掘り進めていった。

そしてついに、12月8日の夜明けの空に輝く星を見た瞬間、とつぜんに大いなる覚りに到達し、様々な幻想や人間の心にとって望ましからぬものが発生する源をつきとめることができた。

かくして彼は智を完全なものとして身につけ、法を体現したのである。

ブッダの覚りについて、古来人々はそれを、師なくして覚った(独覚)であるとしてきた。

事実、ブッダは覚りに達するにあたって、師も友も持たなかった。信仰対象としての神も持たなかった。自身の努力のみによって、勇猛心をもって覚ったのである。

出典:La Esperanta Verkaro de ロibajama Zenkei, 1979(柴山全慶エスペラント著作集)

著者:柴山全慶。1894年生まれ。1908年に臨済宗で受戒。臨済宗南禅寺派第9世管長。花園大学・大谷大学教授。近代禅学の第一人者として、アメリカで8回にわたって禅学を講義した。日本仏教エスペランチスト連盟初代理事長。エスペラントにも堪能で、特に『十牛図』のエスペラント訳が有名。