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讃頌会研修会:参加者からの感想

讃頌会第4期第3回研修会の感想

「親鸞聖人の生涯に学ぶ」と題して6回にわたる講習会を受講し、今までいろいろと聖人様のお話を聞いて参りました。その時代の荒波の中、志をつらぬき力強く生きられた聖人様のことを考えますと、とても我々の考えの及ぶ人でないことがわかりました。どれほど身に付いたかはわかりませんが、末席ながら法話を聞くことができたことを幸せに思いました。

現在とて世界中が荒れている時、朝夕仏前に手を合わせ心安らかに時の流れる短い時間でも、幸せであるとつくづく感謝しています。

法話に会えること、これがそもそも私にはよいご縁として、今後とも折にふれお話を聞きたいと思っています。思えば法話を聞くご縁をいただいて30年余り。頭に残っていることは何もありませんが、聞きに行けることを喜んでいます。元気でいる限り続けていきたいです。皆様も元気で法話の席で又お会いしましょう。

安順寺 玉芳院釋尼妙咲

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讃頌会第4期第2回研修会の感想

第2回讃頌会の研修会で「親鸞聖人の生涯に学ぶ」が一月十八日にあり、四衢亮先生の講義を聞かせていただきました。

いつも会の最初には正信偈を全員であげさせていただきますが広い御堂の中でお経をあげているとすがすがしい気分になります。

親鸞聖人ご生涯の後半を学ぶと伺いましたが、今回の内容は難しくて頂いたプリントを読んでも理解ができず感想文を書こうと思っても全然まとまりません。

吉水時代の三十二才の時、七箇条の制誡に僧綽空と自署を残され、三十三才の時に選択本願念仏集を書写されて、三十五才の時には法然上人、親鸞聖人が流罪になられ大変な時期であったと想像いたしました。

今回のお話の中では現実をはなれて浄土があるのではない。浄土のまっただ中にあると聞いたのが心に留まりました。又「よき人も悪しき人も如来のはたらきに出合うことができる」のお話も救われる気分になりました。

恵信尼様の手紙が大正時代に本願寺で見つかり実在した人であったことや鎌倉時代に女性が手紙を残せるのは教養のあった方だと思われると聞きましたが恵信尼様のことも知りたいと思います。

ご縁があって三十組の讃頌会に入り五年になりますが聞かせていただく機会をつくってもらい感謝しています。よく理解できないながらも、ずっと聞かせていただきたいと願っています。

晃照寺 釋尼智泉

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讃頌会第4期第1回研修会の感想

いつもながら、煩悩だらけの私ですから今日のお話わかるかしら...

異学とは「聖道外道におもむきて、余行を修し余仏を念ず、吉日良辰をえらび占相祭祀を好むなり、これは外道なり」

ア~又むつかしい四衢先生のお話し、前回お休みしたので少々不安...

この意味は、災いがどちらの方向からやって来るか予知・予言して災いからのがれ、福を集める方法を欲しがるものだ、等々

ガツーーン まさしく占い大好き人間の私、大きな幸福は望みませんが、穏やかにゆっくり生きていきたいだけですが...

人は、不安心配を避けたいので早めに知りたいので修行するが、修行すればするほど幸福になってもその先の老いと病の不安から、のがれることは出来ない。だからこそ、人の痛みや悲しみを共感して共に今いる私を生きよう。

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ「今 いのちが あなたを生きている」なのですね。むつかしいテーマですが、私少しわかったかしら。鎌倉時代に生きておられた親鸞聖人さま、大変ごぶれいでございますが、ありがたいお教えでございます。一歩でも前に進みたいと思いました。四衢先生、わかりやすく教えて下さいまして、有難うございました。

法照寺 釋尼妙節 (長井節子)

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讃頌会第3期第3回研修会の感想

今回の讃頌会研修「親鸞聖人の生涯に学ぶ」は、聖人750回御遠忌を2年後にひかえ、その教えを改めて認識する貴重な機会であった。

研修を貫いた主題は「若き日の親鸞は 何に苦悩し何を得たか」であった。

親鸞が20年間修業を行った中世前期の比叡山は、院政政治と車の両輪関係にある政治経済の一大機構であり、現世の祈りに応える祈祷の場であった。

親鸞は29歳の時六角堂に100日間通い、95日目に夢告を得た。それは肉食(にくじき)と妻帯であった。それは人として生まれ、生きて行くには欠くことのできないことであり、それが人間であり、普通の人間の生活が仏道修行の道場となるのではないかと認識した。その後親鸞は法然上人との出会い、自ら確認したことは、「雑行を棄てて本願に帰す」であった。

四衢先生の、穏やかではあるが熱気に溢れた講義に、私は時を忘れ、800年前の親鸞に想いを馳せるのであった。

正福寺 釋太信 (金森太郎)

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讃頌会第3期第2回研修会の感想

目下、中日新聞で親鸞聖人が小説になって連載され多くの人の注目を集めています。そんな中で「親鸞聖人の生涯に学ぶ」とのテーマで四衢先生に御講話いただけることは、この上ない幸せに思います。第一回「若き日の宗祖、その課題」に続き、今回は第二回「若き日の課題から出会いへ」と題し、飛鳥、奈良、平安、鎌倉と時代の変遷の中での仏教と政治の関わり、聖人の生きた時代背景に始まり、様々な心の葛藤の後に法然上人に出あうまでをお話しいただきました。ひたすら仏の道を追い求めることの内容は余りに難しく、なかなか納得するところまでは至りません。六角堂夢告の中のこと、万人のあらゆる所業、基本的なものが原点というように伺いました。

今までは雲の上の存在で、私とはかけ離れた世界のことと思っておりましたが、少しは目を向けられるかと思います。日頃人を見比べ非難し、自分だけはという思いが目立ち、反省後悔しきりの毎日、それを見せていただいてそれに向かって精進していくことができれば、いろいろな問題も少しは、心も休まれるのかなと思いました。

明岸寺 釋尼良賢

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讃頌会第2期第3回研修会の感想

今回の内容は私には難しくて分かりづらい研修会でした。
勉強不足、学の無さと思いますが、日常生活に結び付くような、自分の心に何か気付く事が出来る法話だと良かったと思いました。
講義で、何度も続ける事が大切と教えられましたので、今後も聞法を聞き続けて、今回の分からなかった内容が、いつか納得できるような自分になれば良いと願っています。
今後の希望としては、出版物で紹介された「浄土の真宗」「大乗の仏道」の講義を分かりやすく、教えて欲しいと思います。
お世話してくださいました皆様、ありがとうございました。

法照寺 村上玲子

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讃頌会第2期第2回研修会の感想

1月12日、名古屋教務所にて開催の研修会で、平野浩司講師の貴重な講義を拝聴させていただき、深く感謝申し上げます。今回の講義は二回目で、テーマ「名号―南無阿弥陀仏―について」でした。前回は「本願力のはたらき」について講義をいただきました。 今回の講義はレジメに基づき、説明を進められまして、皆熱心に拝聴させていただきました。講義内容は、念仏の意味するところからかみ砕いて説明していただき、称名念仏は凡夫である衆生が等しく救われる宝物であり、念仏の大切さを分かりやすくお説き下さいました。この貴重な講義を拝聴させていただいたからには、これよりは実践あるのみです。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
尚、4月に開催されます第三回目の講義、テーマ「真仏弟子―その生活」も楽しみにお待ちいたしております。

法光寺 釋智願(丹羽千人)

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讃頌会第2期第1回研修会の感想

平野浩司先生をお迎えし、「阿弥陀如来の本願―本願力のはたらき―」をテーマにして行われました。まず、「三帰依文」制定の由来、続いて「真宗の教義」の基本に触れ、「本願とはどのようなものか」「親鸞聖人は本願をどのようにいただかれたか」について詳しくお話をなさいました。

先生は、僧籍にあるお義父さんが生活の中で「南無阿弥陀仏」とごく自然に唱えられる姿に触発されて、民間企業をご退職後七年間大谷大学博士課程まで学ばれたという方です。マイクなしでもよく通るお声で、とうとうと話されました。自然や社会のはたらきによって生かされて過ごすことができることへの感謝から、人間が守るべき道に向けて毎日努めることは、仏の教えに通じ仏法を信ずる者の生き方だと説かれました。

後の座談会で「自然トデキルヨウニスル」と板書され、言うだけでなく絶えず行うことの大切さに触れられたところにも、先生の仏に帰依する真摯な姿勢が伺われました。

次回からも、先生が「生活の中でどのように真宗の教えをいただいておられるか」そのお話を楽しみにしております。

称名寺 釋博聞(岡本博行)

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讃頌会第1期第4回研修会の感想

研修会を3回受講し、至心信楽欲生という弥陀の本願に身を任せ念仏に生きる(正信)、罪深くとも浄土に往生できる信心に触れて意を強くしております。

迷信については、誤って信ずることだと思っていましたが、自我に生きることだと知り驚きました。

本日受講しました「自力・他力」について、池田先生は「他力(因縁)が分からないのではなく、自力が分かっていないのだ」と話されました。

自力は分かっているつもりでしたが、池田先生が「自力は自己過信(自信)だ。我が身を頼み、我が心を頼む、我が力を励み、我が善根を頼む人だ」(真宗聖典p.541)と引用しながら、念仏しながら他力を頼まぬ人々であることを示されました。

「分かるように言っても分からんのだ」と言われ、自分のことを言われているような気がしました。 「心で聴聞していれば心の働きが伴い、身で聞いて初めて聞法となる、真実の教えが分かる。」
「心で聞けば"身を忘れて心が暴走する"故に悩み苦しむ。身で聞けばその立脚地で聞き真実が受け容れられる、自然と一体となって真心をいただくことができる」
「聞法することは教えによって自分の常識(物差し・差別)を疑い、目覚め、周りの人々に堪えてもらっている自分の傲慢さに気づかされ、事実を事実として学ぶことであり、立脚地の転換がなされること。身に立つか、それとも心に立つか?」

このようなお話をされましたが、しかし私は、「身に立つ・身で聞く」ということが理解できませんでした。話は耳で聴き頭で理解し行動するものと思っています。講義後の座談会でこの疑問を話しました。

私は、聞法というのは、親鸞聖人の時代、俗人は字が読めないために説教に用いられたものと思っておりました。

島津組長(法光寺住職)から、「逆にそれだからこそ身に立って身で真剣に聞き真理を解し求道した」と聞き、自分の頭でっかちを恥じ、「身で聞く」という課題を自分のテーマとし、立脚地を探し求めてゆきたいと考えています。ありがとうございました。

正覚寺 釋孝道(成田孝英)

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讃頌会第1期第3回研修会の感想

1月20日開催の講師、池田勇諦先生の「御利益」についての講題を拝聴して、安堵致しました。私の家は先祖代々真宗門徒で、昭和区花見通の「法光寺」さまに、お世話に成っております。世間で、浄土真宗は葬式仏教で、死後に浄土に行かれるが、現世では利益を願うことが出来ないと言われて居り、面白くない宗教に先祖が拘わったものと思っていました。死んで浄土に往かれても、現世で楽しくなかったら無意味な人生を送る事になり、宗旨替えを考えた事も有りました。聞法して真宗門徒の歩みをすれば、この世でも、あの世でも必ず浄土の楽しい暮らしが叶えられる事が分かり、安心致しました。何事も噂や迷信に惑わされずに、真実を追求する事の大切さを痛感致しました。

先生が最後にお話し下さいました、「戦争は戦争の顔をしてこない」と、現在の日本の指導者が、日本を危険な道に国を導いている事に対して、強く怒りを持たれて居りましたが、私も日本が危険な戦前に戻る危機感を持っています。私の父はお国のために米軍と戦い、若干31歳の若さで太平洋の藻屑と消えましたが、日本が再び戦争をする為に、尊い命を捧げたのではありません。何としてでも現在の平和憲法を守る必要が有ると思います。

合掌
法光寺 釋智願(丹羽千人)

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讃頌会第1期第2回研修会の感想

10月14日の讃頌会の研修会に参加させて頂き古塚正覚先生の話を聞かせて頂きました。先生の講義は「正信と迷信」というテーマのもと、「占い」や「たたり」のことについて具体的な話を交えながら、我々人間が迷信の世界に陥っていく心の弱さを分かりやすく話して下さいました。

先生のお話を聞いて私には思い当たる出来事がありました。私が60歳を過ぎた頃のことです。病気で愛娘(当時39歳)に先立たれ、何と無慈悲なことかと嘆き、この世には神も仏もあるものかとまで思いました。家族はもとより、知人、友人に慰められ、励まされ、また勇気付けられもしましたが、なかなか心は晴れませんでした。それどころかこれは「たたり」で「お祓い」でもしてもらった方がよいのではないだろうかとまで考えたこともあり、時々不安や良からぬ考えが頭を過ぎる落ち着かない日々を送っていました。

そんなある日、お寺で聞いたことのある仏教のお話しをふっと思い出しました。『人は必ず命を終えて いかねばならない』。娘を亡くして以来、なぜ自分の娘だけがとか、娘は若いのになぜとか考えてしまい、私の心が晴れることはありませんでした。しかしこのことを思い出してからは娘の死という出来事がスーと腹の中に収まり、落ち着くことが出来ました。自分の人生に与えられた難題は迷わず、逃れず、自から受けて立つ。その結果得られるものは自信のような気がします。私はこのことがきっかけで明るく余生を歩んでいこうと心に誓うことが出来ました。

私は現在70歳半ばになり、俗世のことも少しはよく見えるようになりました。人生は楽しいことばかりではありませんが、悲しいことばかりでもありません。娘の死という出来事で絶望感だけが私の心を覆い尽くしていた時もありましたが、仏様のお言葉を思い出して以来、悲しいことの中にも有り難さや喜び、また感謝の気持ちが湧き上がってくるようになりました。本当に有り難いことだと思い、幸せを感じております。

最後になりましたが、私のモットーに「主婦は家の太陽である。燦として輝こう」ということと、「清く 正しく 美しく」というのがあります。一家の主婦は明るく陽気で元気で笑顔で………。今後とも讃頌会研修会に参加し、明るく陽気で元気で笑顔で聴聞に励みたいと念願致してしております。

安順寺 崇徳院釋尼妙静

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讃頌会第1期第1回研修会の感想

平成18年5月16日第30組の研修会が法光寺様で行われ、60名以上の参加者がありました。年間のテーマは「正信と迷信」で第1回は「占い」で講師池田勇諦先生がお話して下さいました。

先生は、私達は、迷信(迷心 まよいのこころ)の中での生活で自我を捨て切れず自分の経験や価値観、自分物差ですべての事を見、自分が絶対に正しいと信じているのです。だから、思うようにならなかったり、他人が認めてくれないと腹がたってしかたがないと言う自己中心の日暮をしている事に気が付かないのです。

親鸞聖人は、法然上人に出会い教えを頂いて、自分を深い悲しみと痛みを持って受けとめ、阿弥陀如来の働き(本願)によって、救われてる喜びを得られました。ですから、私達も親鸞聖人の教えを聞かせて頂き、法に照らされて、自分のおろかさを知らせていただくしかないと思います。

これからも、御縁のある限り、教えを聞かせて頂いて行きます。

晃照寺 釋正念(古村政雄)

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