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<03>普賢菩薩の徳

また大乗のもろもろの菩薩と倶なりき。

普賢菩薩・妙徳菩薩となり。慈氏菩薩等のこの賢劫のなかの一切の菩薩に、また賢護等の十六の正士ありにき。善思議菩薩・信慧菩薩・空無菩薩・神通華菩薩・光英菩薩・慧上菩薩・智幢菩薩・寂根菩薩・願慧菩薩・香象菩薩・宝英菩薩・中住菩薩・制行菩薩・解脱菩薩なり。

語句の説明

大乗 梵語マハーヤーナの漢訳。大きな乗り物という意。教法は衆生をさとりに向かわせる乗物であるから乗といい、大乗とは、自らさとりを求めるとともに、広く一切衆生をも救済せんとする自利・利他の菩薩の教えをいう。小乗に対する語(南方仏教を小乗と呼ばないように)。。

菩薩 梵語ボーディサットヴァの音写、菩提薩た[土偏に垂]を略した言葉で、悟りを求める者、すなわち求道者の意味で、最初期は、成仏される以前の釈尊を指す言葉であった(釈迦菩薩)。それが大乗仏教になると、在家・出家、男女を問わず、仏陀の悟りを求めて修行するものをすべて菩薩と呼ぶようになったのである(凡夫の菩薩)。また、弥勒・普賢・文殊・観音などのもう一つの菩薩があって、これらの菩薩は、現にましまして衆生を教化しつつある菩薩(大菩薩)である。大乗仏教の菩薩はすべて願と行とを具えているといわれる。その願は、それぞれの菩薩によって異なる。それを象徴的に示したのが、普賢の行、観音の慈悲、文殊の智慧などである。しかしすべての菩薩に通じるものは、自ら悟りを完成する(自利)と同時に生きとし生けるものを救う(利他)という目標を持って、深い慈悲に根ざしているということである。

普賢(ふげん)菩薩 梵語サマンタ・バドラの漢訳。慈悲をつかさどる普賢菩薩のこと。釈尊の脇士として右側に白象に乗った姿で侍す。

妙徳(みょうとく)菩薩 梵語マンジュシュリーの漢訳。智慧をつかさどる文殊菩薩のこと。普賢菩薩とともに釈尊の脇士として、左側に獅子に乗った姿で侍す。

慈氏(じし)菩薩 梵語マイトレーヤの漢訳。弥勒菩薩のこと。また阿逸多ともいう。阿逸多は梵語アジタの音写で無能勝と漢訳し、弥勒の字とされる。もとは別の人格であったのを混同したと考えられる。弥勒は現在の一生を過ぎると仏と成る補処の菩薩として、現在兜率天の内院に住し、天人のために説法している。釈尊滅後五十六億七千万年の後にこの世に下生して、竜華樹の下でさとりをひらき、衆生を救済するために三回説法するといわれる(弥勒仏の三会)。浄土真宗では、真実信心をえた人は来世に必ず成仏する身に定まるから、その位は弥勒に同じであるとして「便同弥勒」とも「次如弥勒」ともいう。

賢劫(げんごう) 現在の住劫(世界の存続期)のこと。劫は非常に長い時間の単位。過去の住劫を荘厳劫、未来の住劫を星宿劫というのに対す。現在の住劫には千仏が出世するので賢劫の名がある。

正士(しょうじ) 大士に同じ。菩薩のこと。

賢護等の十六の正士 在家の娑婆世界の菩薩とされる。

善思議菩薩...解脱菩薩 他方世界の菩薩とされる。


みな普賢大士の徳に遵って、もろもろの菩薩の無量の行願を具し一切功徳の法に安住せり。十方に遊歩して権方便を行じ、仏法の蔵に入りて彼岸を究竟し、無量の世界において現じて等覚を成じたまう。

語句の説明

普賢大士の徳に遵って 普賢菩薩のように、慈悲行を実践すること。

行願 自利利他の完成を願うこと(四弘誓願・十大願等)とその実践修行(四摂・六度等)をいう。

功徳 梵語グナの漢訳。すぐれた徳性。善い行為の結果。報いられた果報。修行の功によって得た徳をいう。

十方 十の方角の意で、東・西・南・北・東南・西南・西北・東北・上・下を指す。

方便 梵語ウパーヤの漢訳。近づく、到達するの意で、巧みな方法を用いて衆生を導くこと。各宗の教学で種種に分類解釈されるが、浄土真宗では、権仮方便と善巧方便との二種類が用いられる。

  1. 権仮方便。真実の法に入らしめるために仮に設けた法門のこと。方便の願、方便の行信、方便化身土というようなものがこれに相当する。この方便は、一度真実に入ったならば不要となり廃されるため暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法といわれる。
  2. 善巧方便。仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じて巧みに教化する大悲の具現としての手段、方法。

彼岸 生死を超えたさとりの世界。迷いの世界である此岸に対する。

究竟(くきょう) きわまり。究極のこと。また究極の目的に到達すること。

等正覚(とうしょうがく) 等覚・正等覚ともいう。

  1. 絶対平等の真如をさとった仏のさとり。正覚。
  2. さとった人、仏。如来の十号の一。
  3. 仏因円満した正覚に等しい位で仏陀の一歩手前にあるもの。菩薩の修行の五十二位あるうちの第五十一位。
  4. 真実信心を得たものは、仏因円満していて、必ず仏と成るから、現在の正定聚の位を「弥勒に同じ」と称し、また「等正覚」とも名づける。

普賢菩薩は、四十八願の中の第二十二願にその名が見え、「普賢の徳を修習せん」とある。この願が「還相回向の願」といわれるように、普賢菩薩は仏の慈悲を象徴するものである。しかし、それは普賢菩薩だけにとどまらず、すべての菩薩は「みな普賢大士の徳に遵」うことが説かれる。無量寿経が、阿弥陀仏とその浄土を讚えるよりも先に、普賢の徳を讚えている事実は、仏道の根本が慈悲にあることを意味している。

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