本書は「仏教も変わる、アメリカも変わる」という副題をもつ。この副題「アメリカも変わる」の意味は、直接的には、アメリカ合衆国という、従来からすればキリスト教、それも保守主義(プロテスタント)キリスト教の牙城のような国において、近い将来に仏教がキリスト教に次いで第二の宗教となるだろうということである。現時点において、著者はアメリカにおける仏教徒人口を約300万人、人口の1%と見積もっている。さらに、仏教徒と自己認識はしていないものの、仏教のシンパサイザー250万人がいる。この数字は、それだけでは大したことはないように思えるが、以前に比べれば着実な伸びを示しており、今後さらに伸びていくであろうことが予想される。ユダヤ教を追い越して、アメリカ第二の宗教になる可能性が十分にある。そして現に、アメリカ社会は宗教的多元主義の時代を迎えつつあるようだ。
そして、副題の「仏教も変わる」。「アメリカで起こる社会現象は、10年、20年後に日本でも起こる」といわれる。アメリカが世界標準(デファクト・スタンダード)であることの是非はあるが、アメリカ仏教が日本仏教、ひいてはアジアの仏教に影響を与えないはずはない。現在のアメリカ仏教は、世界仏教のミニチュア版ともいえるが、同時にアメリカ社会の中で独自に発展した様相もある。アメリカにおいては、仏教はもはや移民の宗教ではないのだ。アメリカ仏教の影響を受けて、日本仏教がどのように変わるのか、私としては大いに関心をもたざるをえない。
本書の帯に、「仏教西漸のフロンティアを読む」とある。仏教西漸は本書のキーワードである。そして、これには二重の意味があると私は思う。従来の仏教史は仏教東漸の歴史であった(インドからシルクロード・チベットへ、中国へ、朝鮮へ、日本へ、と東に教線を延ばしてきた)が、西洋へ拡がっていくことはついになかった(カルムイキア共和国のような例外はあるが)。そして現代、仏教はついに西洋社会への進出をはたした。これはアメリカのみならず、ヨーロッパにおいても仏教が着実な拡がりを見せていることからもいえる。これが仏教西漸の第一の意味。そして、前述のとおり、アメリカから見れば日本などのアジアは西に位置しているのだから、今後何十年かで、アメリカからアジアへと仏教は西漸していくであろう、という予想がつく。これは仏教西漸の第二の意味である。
ひるがえって、日本仏教の現状はどうか。私の見るところ、仏教徒の定義を「自分が仏教徒であると自己認識している人」とするならば、人口比2〜3%ではないか、と思う。絶対数で言うならば、アメリカの仏教徒とあまり変わらないのではないか。
したがって、「キリスト教は西洋の宗教、仏教は東洋の宗教」というような単純な図式はもはや通用しないのだ。東洋の宗教というが、それだって絶対数からすれば、仏教はイスラム教やヒンズー教よりも少ないのだ。
日本で暮らす僧侶の私としては、正直いって、海の向こうの仏教事情がどうであろうと、直接には関係ない。しかしながら、仏教の本質がなんであるかを考える時に、異文化圏の仏教との比較はたいへん役に立つ。「これだけは仏教徒として伝えておかねばならない」のか、それとも「単なる風習に過ぎないから変わってもかまわない」のか、を見きわめるということである。極端な例かも知れないが、たとえば僧侶が身に付ける装束や袈裟の色だの紋様だのが、あれはいいけれどもこれはだめ、などという議論はどうでもよくなってくる。「お経は漢文でなくてはダメなのか、英語ではダメなのか」...アメリカで英語で読経が許されるのなら、日本で日本語による読経があってもいいはずだ。もっとも、英語読経は、海外開教のすすんでいる本願寺派においても例外的で、たいていは漢文で読経してその後に英語でお説教する、というスタイルらしい。しかしそれも時間の問題だろう。必ず英語で読経する時代が来る。
著者のケネス・タナカ師は浄土真宗本願寺派の学僧であり、『真宗入門』(Ocean)という著書もある。ただし、本書はきわめて客観的な宗教社会学的な記述になっており、真宗に偏った内容ではない。ダライラマの活動がアメリカ仏教の伸長に果たした役割を大きく評価されたりもしている。
焦点は、アジアの仏教と比較してアメリカの仏教の特徴を論じた章であろう。そこでは、(1)メディテーション中心、(2)社会参加(Engaged Buddhism)、(3)在家中心、(4)超宗派性、(5)個人重視、ということが明確にされている。以前から私が聞き及ぶ範囲では、アメリカでは3つの系統、すなわちテーラヴァーダ仏教・チベット仏教・禅仏教が主流であるということであったが、このことは特徴の(1)に相当する。そして、著者は自分自身の体験として全米仏教指導者会議のことを語っている。その会議には100人程が参加し、分散会が各系統毎に持たれることになった際、上記3つのグループに加えて「その他」の4分類になったということである。つまり著者は「その他」扱いであった。100年以上の歴史をもつアメリカの浄土真宗に身を置く著者としては、これはショックだったと述べている。アメリカでは浄土教はマイノリティの中のさらにマイノリティなのだ。
超宗派性ということも、日本の仏教教団が大いに考えねばならぬ問題である。日本仏教は宗派意識が強すぎる。これについては、後日稿をあらためて述べるつもりだが、私自身も宗派意識が相当ある。その私でさえ、さすがに「?!」と思ったことがある。教区の任務として法語の選定に関わったときのことである。選定会議において本願寺派の学僧の言葉が候補に上がった。しかし結果としてそれは採用されなかった、なぜならば「大谷派の我々が本願寺派の僧侶の言葉を選ぶのはおかしい」... なぜおかしいのか、私には未だに理解できないが。同じような会議において、今度は大谷派の学僧の言葉が法語として採用されることになった。しかしその出典となる著書の副題に「親鸞・日蓮の世界と現代 」とあり、これが問題視されて、言葉は採用されるが出典は明示しないことになった。親鸞はいいけれども日蓮がでてくるのはマズイということらしい。中国の僧侶はごく普通に修行寺院を変わる。禅宗からチベット仏教へ、とか。それは僧侶としてはキャリアアップするということでもある。この点はアメリカでも同様らしい。日本では、別の宗派に関わると、下手すると除名されかねない。
私は真宗大谷派(東)の僧侶だが、大谷派教団が欧米への進出を果たす可能性は限りなくゼロに近いと思っている。これについては、以前に「真宗は普遍宗教になれるか」と題して書いたことがある。真宗でも本願寺派(西)はそれなりの歴史も成果もあるが、大谷派が独自に開教する意味はどこにあるのだろうか。ひじょうに困難ではあろうが、真に人類に捧げる同朋教団の実をあげるためには、大谷派は本願寺派に吸収合併されねばならぬ、と私は思う。
本書データ/『アメリカ仏教:仏教も変わる、アメリカも変わる』ケネス・タナカ、武蔵野大学出版会刊、2010年、ISBN978-4-903281-15-5、335頁、2000円(税別)