本書は、仏伝としては第一級の資料である「パーリ律藏(Vinaya Pitaka)・大品(Maha Vagga)」冒頭部分の日本語訳と、それに対する著者の解説である。
従来の仏教学においては、例えば中村元先生のように、文献学的手法を主として、釈尊の生涯や悟りの中身については「様々な説があるけれども結局のところは確実なことは不明である」という姿勢が主流を占め、またそれが学者の良心であるかのように評されてきた。これに対して、宮元氏は大胆な挑戦を試みる。そのスタンスは次の二つに要約できよう。
1. パーリ聖典は釈尊の金口の説法(直説)であると受け取ってよい。インド人の記憶力の確かさは、今日の我々の能力とは比べものにならぬくらいであり、かつ仏弟子として意図的に改竄を行うことはありえないのだから、細部においてはともかく、大筋としては釈尊の真意を伝えるものとみなすことができる。
2. そしてこれらの資料から、論理の力で再構成作業を行えば、仏教とは何かが明らかになる。
私はこの基本姿勢そのものにはおおむね賛成する。文献学は大切だと思うが、肝心なことが明らかにならないのは困る。ゴータマ・シッダールタの生年月日じたいはそれほど大切ではないが、教えは明らかにならねばならない。そしてそれは、単に宗派的伝承を盲信することではなく、論理的に解明されねばならない。
ゆえに、私は著者の基本姿勢に共感しつつ、その一方で、これこそブッダの真意であると説かれる諸点については、「なるほど!」と蒙を啓かれた点もあるが、また同時に大いに疑念を抱かざるを得ない点もある。
まず、「なるほど!」と思わされたのは、十二支縁起についてである。
徹底思考の瞑想の中で、ゴータマ・ブッダは、すべての因果関係の鎖を確定し、知ったのですが、改めて確認するさいには、いわば各駅停車で項をたどったのではなく、特急列車のように最重要な項のみをたどりました。その項の数が十二だったのです。(p.12)
私は従来、中村元博士の説に随って、四支縁起ないし九支縁起が先にあって、後に十二支縁起へと「発展」したのだと思っていたが、これは宮元氏によれば、まったく逆立ちした学説だというのである。有名な「ダンマが顕わになった」というフレーズについて、玉城康四郎博士などが神秘主義的解釈をおこなっているが、この「顕わになる」という意味の動詞は複数形であるから、梵我一如のような解釈をすることは無理であり、複数形主語のダンマとは十二支である、との主張には説得力がある。
しかしながら、私は常々疑問に感じているのだが、十二支縁起の展開の仕方がよく分からない。たとえば、なぜ「名色」(名称と形態)が六入(六つの感覚器官)の因なのだろうか?縁起説に関しては長大な論考をものされている諸先生方の説明を読ませていただいたが、どうしても分からない、論理のつながりがはっきりしない。そして残念ながら、宮元氏の説明を読んでも、やはりはっきりしない。ここがはっきりしなければ、宮元氏の論理に随うならば、仏教とは何かが分かっていない、ということにならざるを得ないので、実に困ったことである。
それよりも問題なのは、無我と非我の関係である。従来、「仏教とは無我説である」と言われてきており、私の仏教理解もこのことが基本になっている。しかし、宮元氏は、五蘊非我が仏説であり、無我説は後世の仏教徒が誤解して作り上げたものだ、と言う。
ゴータマ・ブッダの、こうした五蘊非我の教えは、ゴータマ・ブッダが入滅してはるかに時が経つと、「五蘊のいずれも自己でないならば、どこにも自己は存在しない」という趣旨の「無我説」へと変質しました。「自己」ということばを主語にした議論にかかずらうなというゴータマ・ブッダの戒めは、忘れられてしまったのです。(p.97)
ここでいう「自己」とはアートマンの訳で、通常は「自己」よりも「自我」とか「霊我」と訳されている。宮元氏は、「アートマンは有でも無でもない」と言いながら、次のようにも述べる。
因果を認めるということは、因果応報、自業自得の原則を認めることですから、倫理的な行為を為す主体とその行為の結果を享受する主体とは同一にして不変でなければなりません。この主体こそが自己なのです。(p.104)
私に言わせれば、これこそが矛盾である。釈尊が否定したのは、形而上の議論に関わることであり、アートマンを巡る議論こそが形而上学の最たるものである。しかして、宮元氏がここで行っている議論こそが形而上学である。そもそも、無我説は縁起説から演繹的に導くことができる。現象的なすべての存在にはその因がある、因があるならば実体(自性)を持つものではありえない、しかるにアートマンは実体の同義語であるから、現象的にはアートマンは存在しない。もし現象を超えたところにアートマンがあるというならば、それは形而上学になるから、そのことについては議論をしてはならない。宮元氏は、カントの実践理性批判さながらに倫理的に要請される「自己」をいうが、そもそも「同一にして不変」という性質を持つものは何もない、という無常の論理にも反することになる。
自己は、まさに自己反省的自己あるいは自己完結的自己ですから、あらゆるものごとに実在性を与える根源であって、現象として現われることはありません。(p.181)
まさしく問題はここにある。実在性とか、根源とかいう観念は、仏教にとって獅子身中の虫であると、私は思っている。仏教は反根源主義である。根源などということを考えた瞬間に仏教=縁起的ダイナミズムは死ぬ。
そして更に、無我説であるがゆえに実体的輪廻を認めない、というのが私の立場であるが、宮元氏は有我説に立って実体的輪廻を擁護する。
「生まれることは滅尽した」(輪廻的な生存は今生で終わり、もはや生まれ変わることはない)という境地にまで至るというのが、ゴータマ・ブッダの仏教の目標なのです。ちなみに、こうしたことばを前にして、「ゴータマ・ブッダは輪廻説を否定した」などと堂々といえる人がいれば、ぜひお目にかかりたいものです。(p.184)という宮元氏は、「お目にかかる」ことは最早かなわないけれども、その書物をお読みになることはできるので、一読をお勧めしたい。すなわち、秋月龍 劍V師の『誤解だらけの仏教』である。
釈尊その人は、はっきり輪廻説を超えていた。「もう私はどこにも再生しない。私は生死(輪廻)を解脱した」と言い、「後有(アフターライフ)を受けない」と宣言された。だから、覚者(仏陀)と成ってののちの釈尊が自ら輪廻を信じたはずは、断じてない。(『誤解だらけの仏教』)
秋月老師については、私は全面肯定するつもりはないが、ことこの点に関しては、老師の側に私は立つ。(なお、本サイトで同書の書評をしています。)
さて、宮元氏によれば、パーリ聖典については基本的には「増広」はないそうで、私も「確かにそうだなあ。敬虔な仏教徒がやたら増広するはずはない」とは思うものの、釈尊が神通力を発揮してカッサパ三兄弟を恐れ入らせたくだりに来ると、宮元氏の解説も苦しくなってくる印象は否めない。このあたりが、宮元氏の主知主義の限界でもあろうか。龍王とはコブラのことであると断じながら、コブラを鉢の中に入れて見せたら皆の驚嘆を呼んだというのが神通力合戦の意味だ、などというのは、どう考えても説明になっていない。そして解釈のつかない事柄については、一種の隠語のひと言で片づけてしまうのは、宮元氏らしくもない。ここはむしろ、後世の神格化粉飾であると、素直に認めてしまったほうがよくはないだろうか。増広はない、と力説してしまった手前、ここは神格化にすぎぬ、と言えなくなってしまったのは滑稽にみえる。
総じて言うならば、私は、宮元氏がゴータマ・ブッダの仏教を明らかにしたいとの願いや意図に対しては大いに敬服するのだが、肝心の論理、それも宮元氏自身がいちばん大切にされているであろう論理に綻びがあるわけで、その意味で、失礼ながら「蛮勇」と評させていただいた。
本書データ/宮元啓一『仏教かく始まりき:パーリ仏典《大品》を読む』、春秋社刊、2005年、ISBN4-393-13537-7、216頁、1800円(税別)